2007年4月14日 (土)

晒される

雑誌が学内で出回りはじめています。
とは言えまだまだささやかな段階ですが…
置かせてもらった場所の前を通る度に、減り具合をチェックしたり、
友達に直接手渡して反応を見たり、
そわそわ落ち着かない一日を過ごしました。
現時点での渾身の作であるとはいえ、
誰かが手に取って開いているのを見ると、
何だか自分の中身が丸ごと晒されているようで、
思わず叫びながら走って逃げ出したくなります。
それを堪えながら身悶えていました。
英語が間違ってるとかね…文章がヘンだとかね…
反省は秒単位で増えてゆきます。恥ずかしい限りです。
でもねぇ。読んでもらってなんぼだからね。
読んでもらう為に作ったものですから、そんな事を言ってはおれません。
謙虚に、かつ、胸を張って、いきたいものです。

さて
今週から授業が始まっていたわけですが、
なんだか、違う講義を聞く度に、自分の中の違うツボが圧されていくようで、
やっぱりいいものですね。快い。触発されたり発見したり。いいものです。
真面目に生きるのが2年前期の目標です。妥協せず見切りをつけず。
がんばります。

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2007年4月12日 (木)

完成。

長いことブログ更新を怠っている間に、
色々な行事や大事件や大失敗があったのですが、
それを逐一報告するのは、
悲しくなるので許して頂くとして、

とにかく今の話題といえば

フリーペーパー第3号完成しました!!

メンバー集め開始から考えると、ちょうど3ヶ月です。
長かったねぇ。
色々あったねぇ。

会議がうまくいかなかったり、あらゆる人と衝突したり、
進行がとことん滞ったり、プチ不信感に駆られたり、
体力が保たなかったり、データが壊れたり、
…などなど
とにかくピンチはひっきりなしに訪れましたが、
いつもその都度颯爽と現れては助けてくれた人達のおかげで、何とか切り抜けて完成まで漕ぎ着けることができました。
重ね重ね感謝致します。ありがとう。
この雑誌制作に関わって良かったと思ってもらえたら、幸いです。
楽しんで頂けたなら、幸いです。ただ、一番楽しんだのは私だけどね。

ほんとうに、たくさんの人達からたくさんの力を借りて、できた雑誌です。
おかげさまで、ようやく形になりました。手に取れる形になりました。

あとは、これらを届けるための仕事が残っています。
緊張です。

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2007年4月 5日 (木)

デスクワークで熱くなれるか?

本日もこちら4階Mac室にて作業続行中です。

5階では愛の乞食メンバーが間近に迫った公演を前に怒濤の稽古を行い、
高円寺では友人のバンドがライブをして大成功を納め、新たな道を開拓している中、

私はここでひたすら編集作業続行中です。
眠らず作業を続けて3日目に突入しておりますが、一向に襲ってこない睡魔が不気味です。
3日で目薬が一本切れました。
気力だけで生きられるもんですね。
この強度に見合うものができればいいんだけどな。
いかんせん空回り感は否めません。

沸々と、
こう、沸々と、
来るものがありますね。
腑に落ちない事も大いにありますね。
雲行きも怪しい。
なーにやってんだ?自分。

と、やさぐれてみる。

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2007年4月 3日 (火)

大丈夫

間に合う。
間に合わす。

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2007年4月 2日 (月)

かんづめ

記事も出揃い、
怒濤のレイアウト作業開始です。
間に合うのか。
果たして間に合うのか!
しかし焦るとろくなことにならないので、
ゆったりと構えていたいものです。
徹夜もね。楽しいには楽しいけどね。
辛さを感じてしまうまでに追い込んでも、
いいものはできないでしょうね、と思いました。
義務感じゃ、いいものはできてこないでしょう。
というわけで、少しくらいの寄り道脇道は許してね。

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2007年3月30日 (金)

執筆中

無人のMac部屋からこんばんは。
しかしもうおはようございますの時間なようです。
でも外はまだ暗いですよ。
春分の日を過ぎましたが、まだ暗いですよ。
夏至の日でも、午前4時30分はまだ暗いのでしょうか。
それでは、4時30分はまだ夜で、こんばんはという挨拶こそがふさわしいのでしょうか。
…そもそも、朝の定義って何ですか。
と、つらつらと打ち連ねてはみたものの、実際さして興味は無いです。
記事書いてます。今一つ書き上がって送ったところです。

今日は、いや、昨日は、友人達の踊るのを見たのです。
その話がしたいしたいのですが、
今の状態ではうまく言えないので、
一回寝てから再度試みようと思います。

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2007年3月29日 (木)

お仕事です

記事を書いたり、レイアウトしてみたり、画像をいじってみたりと、
パソコンに向かう日々が続きます。

眼球が乾きます。
魂が吸い取られます。
動かないのにも関わらず、やたらめったらおなかが空きます。

作業自体は好きです。
が、いかんせんじっとしているのが苦手なのです。
サッカーボールで遊んだり、
窓を拭いてみたりして、
手を変え品を変え気分転換しながら作業は続きます。
ひとたび集中してしまえばこっちのものなのですが…。

奥が深いです。
形が出来てからが厄介なのです。
作業が、個人のこだわりの領域に突入してからが、大変です。終わりはありません。
何をもって完成とするのかは、全くの自分次第ですからなぁ。

この雑誌然り、課程紹介冊子の制作も然り、新入生歓迎のちょっとしたイベント実施計画も然り、
仕事は尽きません。
楽しいので良し。
本望ですよ。うん。

…どっか遊びに行きたいっす。

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2007年3月26日 (月)

あたりさわりについて

ほんとうは、
言いたいこと全部言いたいと思います。
書きたいことも全部書きたいと思いますよ。

それでも、いつでもどこでも誤解はつきまとうし、ただでさえ私の伝える技量はまだまだ拙いから、向かう先々で、言えば言う程、書けば書く程、ぶち当る誤解の数は増えていきます。
誤解行き違いすれ違い…、ああ、ディスコミニュケーションだらけ。

一側面だけしか伝わらなくて悲しい思いをします。でも、そもそも、限られた時間の中で、多面体の全ての側面を一度に伝えきるなど、途方も無い話じゃないかと思います。
…だったら何も言わない方が、書かない方が、いいんじゃないか、と思うこともあります。

私の考えていることの全てを、
言葉にして誰かに聞かせることや、
文字にして誰かに読ませるのは、
ほんとうは不可能なんだよな、と思うのです。

その上そもそも私の考えていることそれ自体が、秒単位で微妙に変化しつづけているのだから、しっかりした形など無いのだから、もうこれはどうしたものかと思うのです。
何かについて喋っているうちにもう頭は他のこと考えているとか、
何かについて書き出して文章の方向性が定まってきた途端に内心でどんどん反証が進んでいったりとか、
一回寝て起きたら全てを忘れたとか、
そんなことは、日常茶飯事ではないですか。
では、私の喋っていることは何なんだとか、私は何を書いているんだとか、
考えたくなるではないですか。

ブログの記事にしたって雑誌の記事にしたって、
実際文章として出てくるのは、個人の脳内にある思考の総量における割合から考えても、秒単位で変化し続ける自分という存在というものから考えても、ほんの一部に過ぎない。ただの点です。
それでも、読む人は普通、記事に書かれていることが、文章として提示されているものが、全てであると思うでしょう。書き手を知る手がかりはその文章しかないわけだから、そう思って当然です。
この人はこう書いているけれど、ホントは違うこと考えているんじゃないかとか、深読みするわけではない。深読みして欲しいということではないですよ。読者に裏を読むこと、深読みすることを要求する文章なんて本末転倒ですし。
このブログだって、今までに書いてきた文章全てが読まれれば、点と点がつながって線になれば、それが集まって面になれば、そりゃあ幸福なことだと思いますが、そんな事はありえないわけです。何かの検索を辿ってある一つの記事を読んだ人にとっては、その一つの記事が私の全てなわけです。
これは重いですよ。日々の積み重ねが私を作るとかそんな悠長な事、言ってられないわけですよ。

会話と違って、文字として記録される記事は、形に残ります。
それこそ、私の頭の中からきれいに消え去っても、画面や紙面にはしっかり残ります。
更に、ブログと違って、雑誌に記載された文章は、紙の上に印刷された活字という形で、物質として残ります。
その怖さよ。
書けば書くほど、その全てが残って、誤解も失敗も全てが残っていく。一度書いて発表してしまえばもう取り返しはつかないし、それは時間の経過と共に広がっていく一方です。書き手の望む望まないに関わらず、全ては事実として積み重なります。雪だるま式に増えます。収拾なんて、付かないです。

取り返しのつかない失敗に対して、誤解に対して、書き手が対抗できるのは、また新たな文章を書くという手段だけで、でもその文章も同じく誤解される運命にあるでしょう。それでも書き続けねばなるまい。
一度始めてしまったらもう終われないんだろうと思います。

誤解を恐れずに、と言いますけど、誤解は怖いですよ。凄く怖いです。
誤解誤解って言うけれど、誤解されることの問題は、受け取り手が自分は誤解していると思っていないという点にあるわけではないですか。私が、誤解している聞き手だったり読み手に、その都度、それは誤解ですよといちいち教えに行ければ良いですけど、そんなこと、できないじゃないですか。
誰が誤解しているかわからないし、誰に伝わっているのかもわからない。その「伝わった」はどの程度のものなのかも、わかりようがない。
結局は個人の気の持ちようなのでしょうが、誤解されるのは弱ります。

誤解をされて悲しい思いをして、誤解されることを避けて避けて極力避けていった末、人は、あたりさわりのない話に行き着いたのだろうと思います。
誰も傷つけない、不快にさせない、そんなあたりさわりのない話って、結構大切なんだなぁ、便利なんだなぁ、としみじみ思いました。
今まで凄く軽蔑していましたもの。あたりさわりのないものを。

でも、あたりさわりのないものはやっぱり、楽しくないんですよ。
ああもうこれはもうきっと、私のわがままなんですよ。
あたりさわりのないものは嫌だけど、誤解されたくもないっていうのは、単なるわがままなんですよ。
私がやりたい事をやるなら、誤解を生まないなんて無理な話なのでしょう。
誤解は極力避けたいけれど、「誤解を生まない」を第一の目標にしてはいけないのでしょう。
ただ、ここだけは誤解されたくない、という譲れない一線だけは捨てられないし守らなくちゃいけないと思います。

言いたいことを全部言うのは不可能だとしても、
書きたいことを全部書くのは不可能だとしても、
それでも、
誰かに聞いて欲しいわけだから。誰かに読んで欲しいわけだから。
山ほど誤解されても、認められなくても、誰かに伝わって欲しいわけだから。

だったら、書き続けるしかないのです。
更新し続けるしかないのです。

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2007年3月 3日 (土)

生きる上で何がやりたいって、
とにかく出会い続けたいです。
人でも音楽でも映画でも何でも、世界はまだ見ぬ物事だらけです。

知らない人と知り合いたくて、
関わりが無かった人と関わりたくて、
そして関わった人達を巻き込んでいきたくて、
それにはどうすればいいのか試行錯誤を繰り返し、
色々なことにひょいひょい首を突っ込みながら、現在に至ります。

取り込んで巻き込んで動き続ける、渦のイメージです。
ただ、渦の中心になるには、自ら動き続けている必要がありそうです。
動きを起こすということは、何だろうと思った結果、
とにかく沢山の人々物事世界に出会うことなのではないかと、先週思いました。

出会うことで自分を更新すると言うか、
出会い続けることで自分の中で淘汰されて固まってくる何かとか、
あると思うんです。
相手を選んでいる場合じゃないと思うんです今は。
まだ自分とか理想像を限定して閉じてしまう段階ではないと思うんです今は。
例えたまに、意味のない組み合わせがあるとは言え…。

現に、今まで出会った人達とか経験とか、無駄は一つも無いし全部財産です。
でもそれにいつまでも甘えているわけには、其処でぬくぬくと留まっているわけにはいかないようです。

常に、越境して融解させて反応したい次第です。
飛び込んだ先にある予期せぬ事態とか、思わぬ展開とかが楽しみなのです。
それが楽しいです。
それやりたいなぁ。
雑誌作りでも演劇でも会話でも何でも、私にとっては全てがそのための、出会うための手段です。

明日は帰りません。

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2007年2月23日 (金)

考えどころ

誰かに付き合うのはいくらでもできますが、
逆に誰かを自分に付き合わせるのがとても苦手です。
あれだけ一人で突っ走っておいて何ですが。
集まってくれた人達に対して、明らかに自分の力不足を感じます。
熱意だけでは人は付いて来まいよ。付き合いきれまいよ。

どう引っ張っていけばいいものか、巻き込んでいけばいいものか。
いずれにせよ付き合わせるからには、何かしらプラスになるものを与えていかなくては駄目な気がしまして、それだと今のままでは弱い。
…試行錯誤。

雑誌だって芝居だって何だって、周りに働きかけるものはみんな、
言ってしまえば「他人の時間や労力や気持ちをある程度奪って、自分に付き合わせる」という、
基本的にウザいものであると言えます。いっそ理不尽ですらあります。
その上で、相手にしてもらいたいし、興味を持ってもらいたいわけだから、
魅力を出していく…つまり面白くする必要があります。

これはちゃんと考えて、どうにかしなければ。
やり方を、作戦を考えなければ。
まず、制作段階でメンバーを付き合わせることもできなかった人間が作った雑誌が、
読み手を最後まで付き合わせられる筈は無いのでしょう。

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