2008年9月30日 (火)

二十歳の夏休みのまとめ

老後さながらの隠居生活の中、
図書館と動物園と野毛の店があれば
私は楽しく生きていけるなと思いました。

それでも
楽しいだけでは足りないわけで、
動きたい気持ちは抑えられません。
動けないので考えていました。


知りたいのは、人間が動物を思うという、どう頑張っても一方通行な思い入れが、
消費社会の枠に吸収されることなく
何がしかのポジティブな効果を生み出すにはどうすればいいのかということです。

どんな努力も、突き詰めれば結局人間という種の存続のためのものに過ぎないと断言した上で、
それでも尚、人間が存続するためには
その周りに動物がいなければならないと私は考えたいです。

有益なものも有害なものも、あるがままの状態でそこに居続けて欲しいと思います。

身の回りに動物がいない(と思われている)今、
殆どの場合人間は、他の人間を通して動物を見ています。
動物写真家なり、テレビのカメラマンなり、
そういう意味では見世物である動物園もそうだと思います。
人はもはや「まっさらな」状態で動物と向かい合うことは不可能で、人為的に作られた動物のイメージしか受け取れないのだとすれば、
そのイメージを作る人間の重要性がいよいよ高まってくるはずです。

既に身近からは大部分が姿を消しています。
都市においてはもはや人間に所属した、人間の見たい姿の動物しか見ることができないのなら、
物語や芸術作品の中で描かれる動物のイメージにしか、
可能性は無いのではないかと思いました。

出来ることなら直接救いたいし、報われたという実感も欲しいです。
でも私に出来ることは多分それじゃない。
ペットや家畜の世話をしていれば多分楽しく生きていけるでしょう。
だけどそういうことでもなくて。
私が相手にしたいのは人間です。人間の中にある、動物に対する敬愛の念です。
それを引き出して、どうにかしたいです。
どうにかできませんか。


休み中に考えていたことの経過はこんなところです。

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2008年7月 3日 (木)

愛/愛着

バルトさんの仰ることに
いちいちうろたえていた大学入りたての頃に比べたら、
結構たくましくなったよなあと思うのです。
ただ免疫が付いただけかもしれませんが。

愛着じゃだめだ、愛じゃなきゃだめだ、と言われても、
たじろがず、身に覚えがあることをとっかかりにして考え始め、考えた結果を、また実践につなげる、という環の中にとりあえず入れてみようと、思うのです。
じゃあ愛着と愛の違いは何か、と考えることには、

「愛着のディスクール」というのが、好きである何か(ここでは音楽)について語る際に、
その根拠を音楽の側でなく自らの情緒や感性やら趣味に求めた結果、自分語りに陥ってしまうというもの(と理解したの)です。
音楽を語る時に用いる形容詞一つをとっても、その形容詞を選択するのは「私」であり、
語る行為が必然的に「私の印象」でもって音楽そのものを閉じ込めることに他ならなくなる。
自分にくくりつける(attach)ことになる(愛着=attachment)。

でもそうするしかないじゃないか、ということではなくて、
自分の感性などという安いもので閉じ込めるのが許されるほど、小さいものではない相手というものにぶつかった時にどうすのかい?ということではないか。
そういう相手をいつもの調子で手なずけて飼い慣らそうとすると、無理が生じるわけです。
その無理を、語りの対象を自分自身に持っていくことでごまかすと、他者には伝わらないし説得力も無いし、多分求心力も無いでしょう。

丸腰で、ポテンシャルだけで挑むのは大きな失礼になる相手もいるということ。本読んで腕磨いてついでに顔も洗って出直して来い、っていうことになる。
そこで逆ギレしたり意気消沈して諦めちゃったりしたらそこでおしまい。
相手に言葉が、ひいては自分自身が追いつこうともがくことが、愛であり、
そういった愛の成れの果てに編み出されるのが「愛のディスクール」なのではないかと。
結局言葉は自分で選ぶしかないから、結果は一緒に見えるかもしれないけれど、全然違うものだと思います。
ポエジーですけれども、そういうものもあってほしいと思います。

そういうことを考えたのも、
この前の動物園が消える日の稽古中であり、
自分の経験なんてものからこじつけちゃうのも、また一つの愛着でしかないのですが。

前だったら、じゃあいったいどうすればいいんだ!ぐわあー!となっていたところですが、
作者なんて死んでたって、
愛着でしかモノを語れずに愛に届かなくたって、
それでもやめるわけにはいかないんだよ、と踏み留まることができるようになりました。
それは決して、言うことを聞かないとか、反論とか開き直りじゃなく。
むしろ、理解した上で語るのをやめてしまう方が、ただの誤解より罪深い誤解なのかもしれません。

正しいことを、消極的である言い訳に使うのは間違っていると、確信をもって思うのです。
生きているのは私だし、ひっかかるのは私だし。
先達の言葉を噛み締めながらも、書くこと語ることを続けます。


時代(その場の状況なりシーンなり)の主流に対する親和性の高いものが生存する。
順応できないもの、順応することをよしとしないものが、顧みられなくなったり流されたりすることがある。
そういうものの価値を、後者に代わって(または補って)、みんな(誤解が生じていると己が感じる対象)に伝えるという仕事。
順応できない生物は絶滅から逃れられない。にもかかわらず残したいと思うんだったら、力入れてやらないと残らない。大変な仕事だ。
そこに意味はあるのかとかそんなん知らないけれど、私が勝手に残したいと思ってるんだから、私が頑張らなきゃいけない。
たぶん愛の深さが問われています。

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2008年6月27日 (金)

献身的

生体リズムを一から組み直そうと思っているのですが
…てんで駄目だ。
2日無睡と20時間睡眠のくりかえし
くりかえし
死の木曜日
染み付いちゃったかしら?
朝寝て目を覚ますと夜
腰が痛いのと体が冷たいの二大持病も作用して
ああっもう!!

一人で本を読んでいる分には良い
でもこれじゃあ普通の人々と一緒に暮らしていくことが
できない!
生物的機能を狂わせて集団的動物としての欲求を打ち消してまで
貢献したいのかね、
ただ単に重宝されてるだけであって感謝されてるわけじゃなし
活動時間の行動だってマニュアルづくめだし
マニュアル以上の努力は無駄と見なされますし体力削られるだけ。
深夜のお客様なんて、大方は酔っ払いか眠そうな人か疲弊しきった人だ。笑顔で元気に心を込めて応対したところで、反応は薄い。
皿を下げるときにごちそうさまって言われるだけで感激する始末で、それってどうなんですか。
努力してる己は正直ばかばかしいですが努力しないと手抜きに思えてしまうクソマジメ性分なので努力する。報われないのはわかりきってても努力しかできない。そしてへろへろになる。
寝たら死ぬから寝ないで出席取られるためにぼんやり大学行って
ここでも授業中寝るのが許せないので寝ない。
友達に会っても元気で正常な対応が出来ず。
行った日はまだましで
行けない日は罪悪感と後ろめたさにうなりながら終日ベッドの中。夜起きだしてまたバイト。

私が悪いんですよ。
たかがバイトの分際でやりがいやら責任感やら己に求めちゃって
適当に手抜きできなかったり
増えるシフト突っぱねられなかったり
「店の事情」に気ぃ遣って辞められなかったりで
要領よく立ち回れない私が悪いんですよ。正直言って店もそこまでは求めてないですよ。そこそこクレーム来ない程度にシフト埋めてくれればいいんですよ、多分。
むしろ勝手に頑張って自滅されちゃって迷惑〜とか思ってるんじゃないですかね。自業自得なんすよ。
そう、自業自得なのに、店の外の人にまで迷惑かけちゃって、最悪ですよ。
それは授業も然り。

本当に大事にしたいものをみすみす失っていく過程を、お見送りしている。
もう、楽しく生きるとか、やりたいことをやるとか、勉強とかより、
便利に使われる方が、社会のためなのかなぁとか、ぼんやり思ったりも、する。
いやだ。そんなのは、いやだ。
何かのためとか、本当にいやだ。献身的でなんになる?
辞めよう。逃げよう。自業自得なんだけど。私が悪いんだけど。

あああ
動物園のやってる時間に起きて
上野に行きたいなあ。
…しばらく、行ってない。

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2008年5月 1日 (木)

その死から一日経って

あの子が死に、
私は生き延びています。
流石にこたえます。

とにかく、さみしい。

色々思うところもあります。
あの場所にあの子が生きているということが、どれだけ私にとって心強かったか。
しかしあの子本当によく頑張った。
メキシコ出張とかね…あの時私は受験だったね…
思い出は尽きません。
お疲れ様!ご苦労様!今までお世話になりました。

だから私も本当によく頑張れ。
生きてるんだから頑張れ。よく考えろ。

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2008年4月22日 (火)

生きものに対する思いの丈

生きものが好きだ好きだと散々言ってきましたが、
好きなだけでは飽き足らず、
報いたいと願うようになってしまったのが悪夢の始まりです。
悪夢…ええ、悪夢。
しかもその「報い」の形が、
環境保護運動への参加とか動物保護団体に所属とかいう現実的なものでなく、

どうしても
ドリトル先生と彼をとりまく動物達との関係とか、
エルマーとりゅうの関係とか、
どこかでそういうものを理想としているところが否定できなくて困りものです。
理想というか、ただの憧れに過ぎないのではないかという。
どう考えても現実離れしています。架空だし。

気持ちとか愛情とか熱意とか、通じればいいですけどね。ほんとうに。
ただ、それに期待し始めてしまうと、おかしなことになるのは間違いありません。
ペットと私、という狭い関係ならまだしも、
もっと大きな次元で人間と動物の関係性を語るには、
両者の間の絆の存在、は一つの幸福なファンタジーとして胸にしまって、
現実的に、戦略的に有効な手段を探っていかなければならない。
生きものは生きるのが大好きという、唯一頼りにして良いであろうその原則をもって…

道徳的、倫理的、善意から来る保護活動というのは、
確かに立派だと思うけどどこか信用できない、
そこには切実さがない。欲望がない。
では、何をもって報いるとするか…
何をすれば「あぁ、報いてるなぁ」と思えるのか。
先生とかエルマーとかと違って、私は生き物の気持ちがわからない以上、
結局向かうところは自己満足でしかないのが真実なようです。

しかも、現状を鑑みれば、よほどおめでたい人物にならない限りは自己満足すらさせてもらないでしょう。
「自分が何をしても破壊は止まらない。ただ、やらないよりはマシ」
そういう締念の混じった自負を、活動家の方は持っているようです。
そんな人達を前にして、もっと楽観的になりましょうよ!とはとても言えなかった。

…そして私に何ができるのか。
保護と呼ぶより、
あいつらがいなくなるのは嫌だから、そこに居続けて欲しいという、これもまた一つの身勝手な欲望として捉えた方がしっくり来るような気がします。
私にとって動物を見るということは、音楽を聞くとか映画を見るとかいうことと全く同類項に入ることだから。
その世界は豊かであってほしい。マイナーだからって絶滅してほしくない。


その一方で、同じ生きものとして、
一つの生命体として到達できる高みに、私も辿り着きたいと思うのです。
地球上に暮らす生きものは皆仲間、ってよく言われてましたけど、
仲間どころの話じゃなくて…私にとってはライバルというか。
一応、現時点ではヒトが一番高等な生きものとされていますが、
他種の生きものの姿を見ていて、
すげえ!!と思うと、負けたくねえ!!という思いがどうしても付いてきます。
そりゃ、同一の土俵じゃ敵いませんから(敵いたいが)、
力が云々とか走りが云々とか、飛べる飛べないとかいう話じゃなくて、
ヒトという種として、人間の使える機能を全て注いでふりしぼって、何か、やれないかと。

私が芸術に対して思うのはそういうふうなことです。
こと、芝居に対しては一層強く思います。
近頃はいよいよ強まっています。
スポーツもある種限界への挑戦ではあるけれど、突き詰めれば芸術の方がもっと多くの側面でもって生命力が試されそうです。
ヒトとして凄いなぁという人は結構居るけれど、生きものとして凄いなぁという人はなかなかいません。
(例えば唐さんは生きものとして凄いと思います。)


社会の一構成員、市民としての人間という面では、
今も誰にも知られることなく、人間の活動から深刻なダメージを受け続けている他種の生きものに報いたいし
一つの生命体、生きものとしての人間という面では、
それとして到達できる一番の高みまでこの体と精神を連れていきたいと思うし

私の夢であるその両面を、
南方熊楠という人間は本当に実現したと思います。
本当に、心して勉強しようと思っています。

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2008年4月 5日 (土)

キープオン、誰ですか

何かショックな事があったとして、
それに対し喜んだり悲しんだり怒ったり、何かを決心したりして、
その強度がどんなに鋭いものであっても、
全ては、
何があっても続いていく日常というものに薄められて、
そのまま時間ごと次へと進んでゆきます、埋もれて風化してゆきます。
それが人間の営みらしいです。
放っておけば自然とそうなる模様です。
ご多聞に漏れず、時に激しさを見せたとしても、結局私にとって日常は、ゆるやかでまろやかな代物です。平和なことに。
そんな状況下において、切実さの持続は難しいものです。
それ自体は悪いことではないでしょう。
それにしてもいつまで平和なつもりでいるのでしょうか。全くおめでたいことです。
とうに追い込まれているのです。足りないのは努力です。

チュンチュンは雀です。
ホーホケキョは鶯です。
ツツピーツツピーは四十雀です。

ミクロコスモスは動物界に分類されるという噂です。
お互い生き物として存在し始めた以上は、
時を経て古くなって、風化されていくだけで終わりたくないものです。
逆らったりもがいたり飛び跳ねたりしたいものです。
その切実な動作により、
ゆるやかな怠惰さで満ちているこの周辺の空気中に向けて、ある種の異様さや、なにがしかの説得力を孕んだものを放てたならば、人間として生きた甲斐があると思います。
他種他属の生き物達にも示しがつくと思います。

『あなたにとって「わたしたち」というのは、誰ですか。』
(長田弘『深呼吸の必要』より)

新年度が始まり、思うのはこういうことがらです。

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2008年2月27日 (水)

動物園は消えたのかどうか

今ならばやっと振り返れます。
舞台芸術論B発表公演のことを。
今の今になるまで何故振り返れなかったかというのは、それは、私にもいろいろと事情、ありまして。

役が決まってから間もない頃、
この公演は私にとって大事なものになるでしょうと私はどっかに書いていました。
唐ゼミ以外で芝居をするのは初めてでしたし、
学生の集団でがっつりと活動をするのも初めてでしたし、
その上、演目:動物園が消える日と来たもんだ。
くどいようですが、私は動物園が好きです。好きという言葉では表しきれない複雑な感情もひっくるめて、その昔から私は動物園が好きです。

色々なことをとことん考えさせられました。
色々。
まずは動物園について。
人間と動物のコトバの窓口。アニマルの長屋。
唐さんの言葉で語られる動物園像の数々には、読む度読む度それはもう感心しっぱなしでした。
この戯曲に出会えたこと、公演できたことを一個人としてとても嬉しく思います。

そして芝居について。
今迄いかに自分が周りの諸先輩方に頼りきりで、演じるという行為について受け身で無自覚的だったかを思い知り、以降はそこからの脱却のための戦いでした。
大学の劇団に所属している人や、芝居をするのは初めての人と練習したこともとても勉強になりました。芝居に対する姿勢とか、何をもって台本に向き合うかとか、実際話してみて、それぞれ違うんだなぁと。当たり前の話ではあるけれど、こんなにも違うのかと。

それにしても的確な演出の力は凄いです。
演出指導にしても、自己演出にしても。そう動くことで、そう喋ることで、みるみるうちに台本上の言葉が豊かに、いきいきと浮かび上がってくる。
読み解き、そして表現すること。それがちゃんとしていると説得力が生まれるのだなぁと。
身をもって教えて下さった久保井さんには本当に感謝しています。

あとは、やはりチームについて。
これが一番反省というか、全てにつながる話ではあるのですが。
あくまで授業なのにということ(労力が割に合わないとか)、テストやレポート、アルバイトといった学生としてのあれこれを優先させたいということ、その言い分は多分正しいしある程度は仕方の無いことなのですが、
最終的にはみんな授業とか単位とかそんなことはまるで忘れて、一つの公演として本当にすごく頑張ったと思う、だからこそもう少し早い段階で全員の意識がそこに向かっていればと。もっと練り上げられたんじゃないか、もっと自分達の力できちんとできたんじゃないか、と悔やまれることは多かったです。
私も私で、色々気負った挙げ句空回って消耗して自分の稽古時間を減らしてしまったり。
実際、様々な外部の人達の相当な力添えが無ければ実現しなかった本番でした。

進め方に対する物足りなさや違和感はあったけれども、
それでもひたすらストイックなだけでは人は付いてこないし、
みんなの達成感含めて今みたいな授業としての成功も無かったでしょう。「楽しむ」ことも大事なことの一つではあるし。
何をもって正解とするかは誰の立場に立つかで変わってくるから、難しいところです。

でも本番楽しかったなぁ。舞台上も舞台裏も。
終わった時は「終わったー」と思ったなぁ。
舞台上のみんな大好きでした。
昼の回にはもう本当に沢山の友人知人先輩母叔母恩師の方々に足を運んで頂き、ありがたかったです。

後悔先に立たずとは言いますが、
反省点はいくら悩んだところで解決なぞしません。
次に活かして改めることで初めて解決するのです。
さっき日記にでかでかと、反省、終わりと記しました。
だからもう反省は終わりです。
長い長い反省期間はこれで終わりです。

反省ばかりして忘れかけていましたが、この公演で自分が得たものはやはりとてつもなく大きかったのですよ。
ああじゃないこうじゃない悩んだことも含めて。
うまくいかなかったことも含めて。
泣いてばっかりいたことも含めて。
いい経験でした。
この全てを、唐ゼミ次回公演に、来年度の舞台芸術論に、注ぎ込みます。私のこれからの生活にも。
そうすることで、動物園は消えなかったということになりませんかね。
只の思い出にして終わらせてしまっては、情けないですから。

最後に、見に来て下さった皆様、
モギリ隊はじめ最後まで付き合ってくれたメンバーの皆さん、
ずっと支えてくれた唐ゼミの皆々様、
そして久保井さん。

本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

あと忘れちゃいけないサム。大好きです。

長々と書き連ねましたが、これでやっと、一区切りです。
さぁ、次だ。

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2007年11月18日 (日)

そっちの水は甘いかい

生きてりゃいいことありますよね。
いいことあったらいいのにな。
どっかにないかなー。いいこと。
そんなこんなでおはようございます。
昨日の朝からの劇団片付け(2日目)後に直通で入った深夜バイトが微妙に早く終わりました。
午前5時45分をお伝え致します。
激しかった2日間のフィナーレを華麗に締めくくりました。
ファイト一発飲み干して、力、振り絞りました。
頑張ったな。うん。よく頑張ったよ。
しかし私ゃあ一体全体何を頑張ってるのか本当にわからない。
それにしてもなんで今私はアイスクリームなんか食べ始めちゃったのかしら。
寒いっ!!
とりあえず生きてます。元気です。
生きてりゃいいことありますよね。

…。
話は突如変わりますが。
長々と続きますが。

一昨日スーパーマーケットへ行った際に駐輪場に自転車を止めて、
買い物終わってさぁ帰ろかとスタンド倒したところ、
勢い余って隣りで同じく帰ろうとしていた女性の自転車まで倒してしまったのです。
問題はその時の己の対応です。
うわっやっちまった!と思うよりも早く、
反射的に口を突いて出た一言が、

「申し訳ございませんっ!!」。

…なんか、一気に萎えました。
相手にも怪訝そうな顔で見られたし、何より私自身が呆然としました。悲しみに暮れました。
そこまで染み付いちゃってたのか接客用語。
気持ちや反応よりも早く、言葉が出るか。
自分が全く信用ならん存在になってしまったようで恐れおののきました。

深夜は疲れるとか、シフトがおかしくなってきたとか、
そういうのはもう、もしバイトを辞めることになった時に挙げられるであろう離職の原因として頭の中で常に存在するのですが、
でも結局そういう理由では辞めないんですよね。決定打にはならないんです。
しかしあのスーパーで味わった何ともしょっぱい気持ちというのは、精神というものにダイレクトにアタックしてきます。実際大いに揺らぎました。

ああ、こういうのを、契機って言うんだろうなぁと思いました。
原因と契機は違うんだよっていうことは、よく言われはしますが、初めて身をもって知りました。
そして実際に起こした行動(例えば何かを辞めるとか)の理由っていうのは、原因じゃなくて契機の方がリアルなんだっていうのも、わかりました。
原因もそりゃあ、確かに当てはまるのだろうけれども、行動を起こすに至った本当の動機づけは他にある何かであって、そいつが、他でもない決定打であると。
ほんの些細なことが、きっかけになってしまうんだなぁと、学びました。
それが一つ。

でもそうやって揺らいでも、もしこの仕事に生活が、しかも他の誰かの生活がかかっていたならば、それでも人は耐えて続けてゆくのだろう、とも思いました。
違和感を受けた時点ですぐに方向転換できるっていうことは、自由っていうことは、今の自分にとって望ましい状態ではあるが、人様から見たらそれは、青いとか甘えてるとか無責任とかいうことと紙一重なのだろうと。
ほんと、大人っていうのは、守るべき生活っていうのは、職業っていうのは、一体何なんだろうなぁ。
生きるために働くのか、働くために生きるのか、って陳腐すぎる問いだけど、むずかしいことです。

でも生きてりゃいいことありますよね。
本当、あってくれなきゃ困るんです。

妙テンションついでに書き散らしてよくわからない文になってしまいましたが、
学生と劇団員とアルバイターとをやっていると、本当にこれについては、考え込んでしまいます。
生業について。

…まあいいや。先のことは先で考えるんだ。今は体全体が睡眠を欲している。
寝よう。

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2007年6月 8日 (金)

本気かい

やること総てに本気出すって無理なんですか。
体力に限界はあるんですか。
限られた力の向けどころを選んでいかねばならぬのですか。
一晩寝ないくらいで翌日のパフォーマンスが落ちるような身体は不便です。
やりたいことだけをやっていればいいのに。
やりたいことが多すぎて、本当にやりたいことがおろそかになるのは嫌だ。
しかしすべきことはきちんとこなしていく必要性はあるみたいだよ。
単位はきちんと取っていく必要性があるみたいだよ。
そこに疑問符を発生させると色々と厄介みたいだよ。
やりたいこととすべきことが乖離してくると辛いみたいよ。

あーなんかもう私の本気って何だ。それはどの程度の覚悟なんだ。

なんてことを考えながら授業の予習が続く。
何やってんだろな。
いや、無駄にはならないはずだ。無駄なことなど何一つないはずだ。
と信じたいです。それを身をもって実証したいです。

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2007年2月11日 (日)

ストラグル

今週、演劇に造詣の深いらしい同学年の知人による演劇批評を延々聞くという機会がありまして、その時、私の余りの無知さに相手は明らかに幻滅していた様子でした。

そして今日、大学の舞台芸術の講義の課題公演を見ました。
その後大学の演劇サークルの人の話を聞いたりしました。
大いに笑った、のだけれども。

何だかもどかしいやら重苦しいやら悔しいやら、色々な感情が残りました。

そんな中で、私って何だ?と考えてしまいました。
何か、単に属しているだけなのではないかとか、
周りに頼っているだけなのではないかとか、…。

演劇サークルの人とか演劇好きの人みたいに、昔から演劇に対する意識が高かったわけではないし、
ただやってて楽しいからという理由だけで今の場所に身を置いている私というのは、
何だか余りに軽々し過ぎるんじゃないかとか、
モノを知らなすぎるんじゃないかとか、
覚悟が足りないんじゃないかとか、
失礼なんじゃないかとか、
そういうことを言外のうちにずっと言われていたようで、
なんだか
考え込んでしまいました。

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2006年12月28日 (木)

どうしたもんだろ

たまに突然思い出したように真面目な本とか番組とか読んだり見たりするのですが、
環境にしろ社会情勢にしろ
なんだかどれも軒並み救いようのない状態で、
あぁそんな中自分はなんて軽薄に生きているんだろう!と
しばし怒濤の後ろめたさに苛まれます。

しかしすぐ忘れちゃう。

そして結局のほほんと日々を送っているわけですが、
それが良いことなのか悪いことなのかはよくわからん。

何が現実であれ
見方というか考えようによってはどうにでもなるので
結局逃げられるわけです。
逃げ道は沢山あります。現実逃避はいくらでもできます。
で、どうしても逃げられなくなった時はもう既に手遅れなのであり、
…とか色々思うのですが、

やっぱりすぐ忘れちゃう。

忘れないだけで変わることもあるんじゃないだろうか。とか考えたりするのですが、

それでもすぐ忘れちゃう。
だから今日こういう事書いたということもきっと忘れちゃう。

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2006年11月17日 (金)

これからは簡素にいきます。

身の回りのいろいろな人やものを、知らず知らずのうちに見くびりながら生きている、
なぁーと

気付きました。
実はみんな面白いのにね。勿体ないね。
狭い狭い。相変わらず。

朝晩特に冷えますね。

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2006年10月25日 (水)

決意表明とか

自分というものが何なのかと考えるのは一時期流行りましたが、もうそういうのはよしましょうと、高校に入る前に決意したのでした。
本当の姿がどうとか、素はどうなのかとか、本心は何だとか、もう非常に面倒になったので、
そんなのまるごと全部本当でしょう、本音なんて別に知りませんということに、
全ての要素が全部本当になるんだから、その分がんばれよということに、
したのでした。
自分にこだわって何か色々取りこぼしているようで、それは違うだろうと、
別に自分らしさというものはそんなに保護していかねばならないような代物ではないだろうと、
思ったのでした。

それ以来、楽しそうな方へ楽しそうな方へとふらふら渡り歩き、気付いたら随分と「自分像」というものが変わってきていました。
楽しそうな方へふらりと寄っては、一部染められたり一部反発したりしながら次の境地へ進む。
ふらふらとはいっても、楽しいとはいえども、ラクではない。
でもラクが楽しいとは限らない、ラクじゃないことが楽しくないとは限らない、ということもわかってきました。

人から影響を受けやすいといっても、その人を選んだのは自分だ。
本から影響を受けやすいといっても、その本を選んだのは自分だ。
ここで大事なのは多分、人でも本でも何でも出会い続けることで、
どんどん出会って、比べて、反応させて、補強して、薄めて、取り込み続けていくこと。
そうして影響を重ねて重ねて、
自分の積み重ねを作っていくこと。
というか、その積み重ね自体が自分になるんだと思う。
その積み重なった現在が自分の今で、それはオリジナルになるんだろう。
育った環境とか、偶然の取り合わせとか、そういった不可避の影響も受け取りつつ、
興味の方向を決定していくのも自分。影響される相手を選び取っていく選択の主も、それもまた自分。知らない方向へ進むことを決定するのも自分。

選択のセンスが問われます。転がり続ける力が必要です。
らしさなんかにこだわっている場合ではない。
正体を掴む事にエネルギーを注いでいる場合ではない。
やわらかく、かろやかに、変わり続けていくには。
そうしてそういう自分と付き合っていくには。

決意も新たに、10代最後の1年が始まりました。
全力でいきます。生きます。

ところで今日の横浜の海の方の夜空は、夜空のくせに妙に赤くて不気味でした。
雲が赤潮が発生した時の海のように赤く濁っていて、その雲が風でどんどん流されていって、おどろおどろしくもきれいでした。
世界の終わりみたいなものを想起させるような光景でした。

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2006年10月 6日 (金)

10月5日 多忙

いきなり予定が立て込んできた。
雑誌制作のビジョンが突然鮮明になったり。
20日発行だそうだ。そして自分は編集者らしい。
編集って何だ?という段階です。困ったな。とりあえず勉強だ。
何とかなるでしょう。何とかします。熱意で。

ここのところ、集団で何かする機会が増えてきて、
一人でぼんやりしている時間が減っていたのですが、
風呂の時間だけは相変わらずぼんやりとするために確保されていて、
いろいろなことが自分の中で割とすんなり解決したり発案したりするものです。
お風呂を上がって髪の毛を乾かす段階でだいたい忘れてしまったりするのが惜しいところ。

割り振られた仕事をこなすのも、自分で思わぬ発見があったりしてそれはそれで楽しいのですが、
個人レベルでの興味とか、そういうものもしっかり広げたり深めたりしないとやはりつまらない。

というわけで現在の個人テーマは「反抗」です。
一人暮らししたいぜ!というような家庭内レベルの反抗から、
国家に楯突くようなスケールの反抗まで。
周りに対する違和感とか怒りを効果的に表に出す方法がわからないし、
反対運動とか、デモとか、そういうものがあるということは知っていても、身近には感じないし、実際その実態をよく知らないので。
かといって何でも自分の中で押さえ込んでいて結局流されてしまうのは、悔しいし。

ところで宮武外骨の、過激・強烈にしてお茶目な体制批判の手法は、是非とも盗みたい。あれは、絶妙だと思います。痛快です。


読んだもの:鎌田慧 『反骨のジャーナリスト』

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2006年10月 5日 (木)

10月4日 暇

その先へ行くには、自力だけでは駄目なんだろうなと思います。
何かしらの刺激を常に周りから受けていないと、すぐ停滞してしまうなあと思います。
余韻だけでは続かない。思い出だけでは続かない。
どんなに大きな出来事があろうと、余韻なんてすぐに冷める。次、次、と追って行かないと、すぐ止まる。
自分の中から湧いてくるイマジネーション(うわ胡散臭い響き)みたいなものだって、動力源は、周りからの刺激です。化学変化の賜物です。それは、受動的とは呼ばないと思う。
100%自家発電は今のところ不可能そうだ。
だから、何処に身を置くか、どんな刺激を受けるのかを決める事に慎重になる。

しかしまぁどうせ、深く考えずに面白そうな方にふらふらと行ってしまいそう。
ふらふら渡り歩いて、最後の最後までそうやっていけたらいいと思う。

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2006年9月30日 (土)

瞬間コミュニケーション能力について

初めて会うし、
しかも会っている時間はほんの数秒のみであり、
その上この先二度と会わない可能性が断然高い、

人。

というのは普通他人と呼ぶのでしょうが、
そもそもそういう状況とはつまりただすれ違っているだけであり、それを「会う」と表現するのは間違いであるのでしょうが、
他人と言えども、関わりの度合いは低くても、その数秒は関わっているんですよね。
「他人である」ということを意識するということは、そこに人がいるということを意識しているということだから、
誰とも会わないよりは、他人でも会っている状態は、確実に誰かとの関わりは生じていると言えますよね。

車を止めたりトラック誘導したりで一日中道路に立って、道行く人々を見ていると、そんな気がしてなりません。
というか、そう思わなければ淋しくてやってられません。
まる一日、他人相手に仕事しているわけですから。

名前も素性も知らない状態で会い、何の情報も加わらないまま去るのだから、その人については何も残りません。
でも、絶対何か他のものが残る気がします。
「今日だれそれが何をした/言った」みたいな「対人関係」のカテゴリに残されるのでなく、他のもっと軽い、例えば「その日のテンション」とか。そういうものに作用する気がします。
名前とか素性は何もわからないけれど、印象は残る。
表情とか、服装とか、話している事とか、そういうものが印象として残る。
すれ違った一人一人の印象が、少しずつ少しずつ堆積していって、その日の気分に大きな影響を与えているのではないかと。

マナーとか抜きにすれば、相手は他人だから、別に愛想よくしなくても構わない筈なんです。
別に無愛想でも声を出さなくても給料は同じだし。

でも、確実に、にこやかに声出した時の方が、そういう「他人」の皆さんのリアクションが良い。
目が合ったり、会釈されたり、瞬間微笑みを交わしたりする確率が格段に高い。
運がよければ一言二言話せたりする。
(愛想以前に、まずあの制服が、相手を安心させる材料になっていることは確かだと思う。バイト中は、いつもより「初見の人といい気分で別れる」ということが、やりやすい。)
すると、私は単純だからそれだけで元気になったりするので、結果的に「愛想のよさ」が自分のエネルギー源になるわけなんです。

工事現場の交通整理の人々(辣腕)に優しげな方が多いのは、そこに理由があるのではないかと睨んでおります。

同じ秒数関わるのなら、その限られた時間の中でもできるだけ打ち解けたいです。
名前とか素性とかは知りようが無いけれど、
友達になりましょう!とかは流石に無理だけど、
打ち解けてそこで安心して楽しくなるのなら、愛想は良くする方が良い。

これを、瞬間コミュニケーションと名付けたい。

つまり雰囲気というか、人柄というか、結局はそういうことになるんだろうけれど。
関わるだけで安心する人って、いいなぁと思いませんか。すごいと思いませんか。
印象って、記号じゃないですか。名前とか素性とか、自己紹介するまでもなく滲み出てその人を紹介してしまうものじゃないですか。
瞬間、瞬間で伝わってしまうものじゃないですか。
他人と関わり続けていくと、そういうものに鋭くなるのではないかと思います。
悪くないと思います。

クレーンが高い所に持ち上げた木材が落下してきて危なかった。
自分の身は自分で護らねばなと思いました。


読んだもの:昨日と同じ

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2006年9月25日 (月)

おや

小学生の時ですが、寝る前にふと、
父と母は、単に私の「保護者」という役割を持つ一人の人間であり、本当は他人でしかないんだな、
というようなことを思って、急激に大きな衝撃を受けたことがありました。それまでに感じた中で最大級の「さみしさ」でした。
おとうさんおかあさん、という自分の中での存在と、「保護者」という名の無機的な響きがどうも一致しなかったのだと思います。つながりの強度というか。なんというか。
保護者って何だよ、と思ったのですが。
同じようなことを、今再び考えています。
でも、今度は「さみしさ」ではなく、どちらかといえば「わずらわしさ」。

なんかうまくいかない。
いつもはうまくいくのに、肝心なところですれ違う。
相性が悪い、で済ませることが出来ればいいのですが。
合わないな、と感じた時点で諦めて離れてしまって済むなら楽なのですが。
それでも残るつながりがあるからそうもいかない。

本当は他人、でも、「保護者」だ。役だろうが何だろうが、保護者だ。そして私はずっと子供だ。
保護、いつまでされるんだろう。
もういいよ、保護いらないよ、と思っても、ずっと付いて回る。
勝手にやらせてくれよ、と思っても、そうもいかないらしい。
かといってずっと迷惑かけてきた負い目もあるから、家を飛び出すのはさすがに気が引ける。

親不孝だなぁとは思います。
いつも結果的に言う事聞かなくて、悪いなぁとも思います。

…東京公演楽日の日記がこれかい。

審判はまだ下されておりません。雰囲気が怖くて聞けません。
続けられるのか、否か。
何でいちいちお伺いを立てなきゃならんのだという思いもあります。
そこが甘いんだろうか。
やると言ったらやるんだ!で突っぱねればいいんだろうか。
しかし考えてみると今まで結構言う事聞かずに好きな事やってきてるんだよなぁ。
剣道部も、ボート部も、警備員も、思えば全部反対されたんだったな…。

さぁどうなるか。

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2006年9月20日 (水)

積極的で受動的

それで楽しいですか? はい
それで後悔はしていますか? いいえ
それで満足ですか? いいえ

その先どうしたいのですか? わかりません。わかるけどわかりません。
逆に聞きたい。私は其処に居ていいのですか?

其処に居ていいのか?だって。…けっ。
苛立ちます。
要請とか、命令とか、許可とか、そういうものがないと何もできないなんて。
結局何も成長していないじゃないか。

そして自分はどうしたいのか
そして自分は何がしたいのか
わかんなーい
決められなーい
へらへら笑ってお茶を濁していたーい

だけど、いつまでもそうやって誤摩化せないんだよ。
向き合えば向き合う程、見えなくなります。止まってしまいます。
なんなんだ。なんでなんだ。
ああ、にくたらしい。


見たもの:大人計画 『まとまったお金の唄』(録画)

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2006年9月 6日 (水)

楽しむ決意

余裕の無さとか、眠気とか、張りつめている精神とか、
そういうものの中であっぷあっぷになっているように思う。
相変わらず何もかもがわからない中で、ヘマをしちゃいけない、邪魔しちゃいけない、貢献しなきゃいけない、
考えなきゃ考えなきゃ、っていう状況になっているように思う。
それでもやっぱりわからないから、何をするにも、自分の今の行動は間違っていないかどうか?今手持ち無沙汰でいる自分は間違っていないかどうか?
と、いつも頭上にはでっかいクエスチョンマークをぷかぷかと浮かべている。
きっと、見える人には見えていると思う。常に付いて回る、巨大疑問符。

そんな中で、どんどん、スケールというか、自分がちっちゃくなっているようで。
それは、ちがうだろう!と危惧する。

楽しいとは何か。
ということを、全くもって忘れていた。
付いて行くのに精一杯で、覚えることに精一杯で、楽しいかどうかなんて、二の次三の次になっていた。
それは、ちがうんだよ。
取り巻く状況にあたふたして、あれこれ不安に嘆いているよりも、もっと、軽く、それでいて、でーんと、構えねばならぬのではないか。
自分が楽しまないことには、周りも楽しめない。
ワタクシ、苦労してるんですー!!っていう空気を醸したところで、誰も喜ばない。むしろ迷惑。

楽しんだ者勝ちっていうじゃないか。
勝ち負けとかよくわからんけども、とにかく、何だか今は自分で自分の首を絞めているよ。
昨日の帆村探偵の言葉にもあったじゃあないか。

…よし、寝よう。


読んだもの: 海野十三 『断層顔』

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2006年9月 1日 (金)

強がりで強くなる作戦

忙しいだけではダメなんだ。
忙しいだけで満足してはいけない。
私は今充実している。私は今忙しい。私は今疲れている。
それだけでいっぱいいっぱいになってしまいがちだけれど、それだけでは何にもならない。
いっぱいいっぱいになることをむしろ奨励されがちだけれど、それだけでは、駄目なんだ。
日々の充実とか。忙しさとか。疲労とか。
そんなのは、あんまり重要じゃない。重要なことは、もっと他のところに、先のところにある。
そういうことを、つい忘れてしまいそうになる。
「自分は今がんばっている」と、思ってしまいそうになる。
あぶない。
そう思った瞬間、全ては止まる。そこで止まる。

”がんばることは当たり前。
それどころかがんばるという実体不明の言葉に逃げ込んではいけません。”
(昔の教え)

苦労している=がんばっている=安心
という、貧しい考えに嵌まってはいけない。
それでは結局何も残せない。自己満足だけしか残らない。
きっとそういう人に限って、後々になって、あの頃は頑張ってたよなぁ〜なんて、回顧するのです。ノスタルジーに浸ってしまうのです。そういうのはやだ。

そういうのは、去年で終わりにしようと決意した。
ひょうひょうといきたい。軽やかに。


読んだ本: 
   鶴見俊輔 上野千鶴子 小熊英二
      『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』

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2006年8月24日 (木)

大丈夫だ。

今日はやっと貢献できた、ような気がする。どうだろ。
作業はだいたい色塗り。
薮の中でカラースプレーを使っていたら、一斉に蚊の襲撃を受けた。
私のスプレー技術がどうしようもないレベルであることは、高校時代、オール(櫂)を塗った時に証明済みだったので、非常に緊張した。どうにかなった、と祈りたい。
なんだか指示待ちばっかりで情けないなぁとは思うけれど、勝手に動けないし。下手な事できないし。邪魔しちゃ悪いし。
という考えが先行して、どうもだめだね。

暇なときは、何もしていない自分に焦るし、
忙しいときは忙しいときで、それだけでいっぱいいっぱいになりそうな自分に焦るし。
今は、飛び込んだ先の慌ただしさに足を完全に掬われてしまったようで、自分がかっさらわれてしまったようで、正直、なんだかとても心細い。

この先どうなってしまんだろうとか、今まで関わっていた企画から外されてしまうんじゃなかろうかとか、自分今どういう立場に置かれているんだろうとか、”手伝い”に来ている筈なのに全く役に立っていない現状とか、他の人達はもっと過酷なことやってるのに情けないとか、…延々。

今は確かに充実している、充実の極みなのに、なぜかそれを素直に謳歌できない面があって。
何だかそういう不安要素に取り囲まれて、隔離されちゃってるんだよなぁ。
狭い狭いところに追い込まれて、不安しか見えなくなって、どんどんわけがわからなくなるんだよなぁ。
…こういうことは、前にもあった。

何の決意も無いまま始まってしまったからいけないんだろうなとか、思うけれど。
何もかも中途半端で最悪だな自分とか、よく思うけれど。

ここで落ち込むともっとやられるので、落ち込むのはこれでやめにしよう。

もっと広い気持ちで!
よくなる。よくなる。大丈夫。


…以上、完全にモノローグでした。
吐き出しました。こんなものに付き合わせてしまってすみません。
今日も含めてここ数日、終電で帰ったり終電逃したりしているので、パソコン点けるのも面倒だったのですが。
毎日更新も、ここまでくると意地です。でもこれじゃなぁ。

あらゆる人達に助けられております。ありがとうございます。

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2006年8月15日 (火)

全て頭の中でのできごと

時代はお盆だということで、久しぶりにファミリーで行動。お墓参り。
親戚の家を渡り歩く。
正しくてまっとうで堅実で楽しげに暮らしている人達に、色々諭される。
心配をかけてすまないとは思っているのです。
仲の良いいとこの家で、カメとクワガタと戯れ、今夏初めて高校野球を見る。
私が応援する側は、何故かいつも負けるというジンクスがあるのだが、今回は勝った。
スリリングな試合だった。
代打・俊足の松尾。
公立高校が勝つと何となく嬉しい。
そして今夏初めてスイカを食べる。
明日が15日であるということに驚いている。まだ10日くらいだと思っていた。
でももう、夕方の空は秋のようだった。

孤独ぶってみても、深刻ぶってみても、
今の時点では、それらは全て頭の中でのできごとにすぎないわけであって、
頭の中でひとりでにどんどん進行していくそういう「だめかも」という雰囲気に、いちいち付き合っていては、全部止まったままだ。むしろ後退していく一方だ。
自分の頭の中から飛び出さなければならない。ぴょーんと。
とじこもるのはそろそろおわりにしませんか。
外側との接点でしか、新しい反応は起こらない。

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2006年8月10日 (木)

台風の接近で工事が中止。バイトも中止。
しかしどこかへ出掛ける気も起きず、ずっと家に閉じこもる。

台風が通過した後の空が、ごちゃごちゃしていて楽しかった。
以下、愚痴です。すみません。


この閉塞感はどこから来るのか。
何が自分の枷になっているのか。
女であること、無知であること、田舎者であること、金欠であること、実家住まいであること、
挙げて行けばきりがなく、それぞれがそれなりに切実であり、どうしようもないことであるかのように思える。というか一部どうしようもないこともある。
しかし、それらが仮に全て解決されたとして、その時私は満たされるのだろうか。

…否。

閉塞感の一番の原因は、「何もしていないこと」である。
それさえ解決されれば、枷なんて、きっとどうでもよくなる。しかしそれがいっこうに解決されない。
そしてその現実に対して、枷はむしろ優しい。
こんなに問題があるんだもん仕方無いよと、慰めてくれる。
あらゆる不安で温もって、言い訳に頼って、焦っているフリだけは達者。
もう本当は、締念に気を許してしまってるもんね。
そしてずるずると、時間だけが過ぎて行く。

全てに中途半端なまま、夢の形を定めることすら億劫になり、それでもどこかで自分は特別であると思いたがるこの思い上がり。
しかし何が自分を特別たらしめているのかは言葉にできず、ただ「私は少なくともあなたとは違う」ということしか言えない。
その根拠はどこにもない。
それなのにそれだけで一時的とはいえ自分を肯定できてしまうというそのおめでたさ。
周囲との差異を確認することでしか安心できない。
「みんなと違う」点を必死で探して、探しているうちにどんどんそれは見えなくなって、一方世界だけはどんどん広がってますます自分を物足りなくさせる。

私一体何やってるんだろ、と思いながらも、明日の勤務指示を告げる電話に明るく答える自分が何となく虚しいよ。
「ハイ!明日出れます」
この元気な私は誰なんだ。
望まれた通りに振るまいがちな優等生気質が、まだ残存しているのか。


今日(8日)から15日まで、上野動物園、営業(営業?)時間延長してますよ。
東園は午後7時まで。西園は午後8時まで。
夜ならではの企画も色々予定されているようなので、是非足を運んでみてはいかがでしょう。

…と、気分を変えてすやすやと眠ることにする。
明日は暑そうだしな。弱気を抱えたままではやっていけない。
でも、やっぱりそこが罠なのかも。目を逸らして、明日もやっていくのかも。永遠にやっていくのかも。

気晴らしじゃ気は晴れないってさ。


読んだ本: 丸山圭三郎 『ソシュールの思想』

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2006年7月28日 (金)

標準ルール無しの世界で楽しくやる

まだ残っている人も居りますが、私は今日で全ての試験が終了。前期、終了!早いっ!!
何か色々な人達に会って、大袈裟に別れの挨拶をした。
夏休み2ヶ月、短いように思うけど、日々会っていた人達と2ヶ月会わないのかと思うと、長いな。

その後ミニコミ誌についてネットで調べていたら、どうやら中野に面白い店がある、という事が判明。学校帰りに寄ることに即決定。
久しぶりに中央線に乗る。新宿で満員なところを無理矢理乗り込んだので、中野(降り口反対側)で降りられそうになく、まぁいいか〜ということで次の高円寺で降りた。
初高円寺。これが高円寺かぁ〜と、商店街をふらふらする。ふらふらついでに古着屋とか入ってみたりする。喋る。中央線沿線に詳しいと見えるお客さんと店員さんの会話に聞き耳を立てる。楽しそうだった。
今度来る時にはちゃんとしっかり回ろう、ということで中野へ戻る。

タコシェという、目的の店を見つけるなり、始めっからその雰囲気に緊張。足を踏み入れて、置いてある本の並びを一目見て更に緊張。わけがわからないまま、数冊手に取って、またその独特な紙面に緊張。心地良い緊張。
…なんだかもう、何でもありだ。
「これは言わないでおこう」とか「これを企画にしたらダメだろう」というような自制というか、暗黙の了解をことごとく破っている。”お行儀良さ”というものを鼻で笑って、マスコミではできないような事を平気でやっている。ミニコミだからできる事だと言えるけど、全てのミニコミがそうであるわけでもないということもわかった。
折角自由にできる環境であっても、作る側の中に先に述べたような「〜したら駄目」という堅苦しいストッパーが刷り込まれていると、結局それに捕われたモノしか出来ないんだろうと思う。
何が良くて何が駄目なのか。その判断をするのは他でもない自分でないと、そこで常識とか既成概念とかに判断を任せていると、結局なんでもないものになってしまうんだろうと思う。
何も、ムキになってタブーに挑戦することもないと思うけど、やっぱり折角こういう恵まれた機会があるのならば、「そこでしかできないこと」をやってみたい。実際にやっている人達が居るので、尚更。

そして、自由があれば責任がある。何でもありっていうことは、言い訳ができないということだ。何かのせいにできないということだ。何か足りないところがあったら、全部自分のせいだ。
面白さもつまらなさも、全部自分次第!
ああー、怖っ!でも楽しそう。

…またこうやって偉そうな事言っちゃって、自分でハードル高くして、途方に暮れている。
色々漠然としすぎていて、全然形にならない。
凄いことやってやろう、って妙に肩肘張っちゃってるんだろうな。「等身大」でいいやっていう妥協は非常にイヤだけど、謙虚さも必要かと。思う。「等身大」、好むと好まざるに関わらず、結局自分の大きさ以上のものはできないだろうから。
だから勉強だ。


読んだ本:丸山圭三郎 『ソシュールの思想』

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2006年7月23日 (日)

7月22日に考えたこと


久しぶりにフィルムセンターへ行ったら、2年の先輩に出くわした。
思いがけず誰かに偶然会う、という事態が非常に好きなので、俄然テンションが上がり必要以上に喋った。
基本が個人行動だと、誰かと話すということに貪欲になります。結局寂しいのね。

それはともかく。
話の流れで、
で、これからどの方向を極めようとしてんの?
と聞かれて、うーん…と、考え込んだ。

いつまでもこう、映画とか音楽とかにいろいろ首突っ込んで雑食なままでいけば、
結局中途半端なことになるんだろう、いつまでたっても「受け取る側」でしか居られないのだろう、
という危惧はあるものの…、…でもなあ。
映画撮るとか、バンド組むとか、いろいろ「表現側」にまわっている人達は周りに結構居るけれど、
未だ、自分にできる最良のコミュニケーション手段は、会話なんだよな。直接対話。
それ以上の手段が思いつかない。何かに仮託しようと思えない。
口で言えることは口で言うし、そうでないことはここに書いてしまうし。それで事足りているんだよな。
映画見るのは好きだし、音楽聞くのは好きだし、そういうのは外とか他者とかを知りたいからなのだろうけれど、その手段をもって自らも何かを伝えるか?となると、…うーん。と。考え込む。

…と、こうしてつらつら書いてみて、未だ自分が「作者の死」(バルト)を受け入れられていないことがわかる。
まだ、「伝えたい事」とか「表現」とかそういうことに縛られている。
芸術(って大雑把に括ってみる)をコミュニケーションの手段と取ってる時点で、何か違ってしまっているんだろうか。

とにかく自分の中ではまだ、映画、とか音楽、とかジャンルを決めてしまうことが、「自分を狭くする事」でしかない。でもそれを恐れて何もしなければ、結局このままで終了してしまう。
いつまでもただおとなしく「受け取る」だけっていうのは耐えられないぜ!という思いだけで、飛び出せるものなんだろうか。飛び出していいものなんだろうか。
それとも、このまま生きていく過程で、ああ、これは言葉じゃとても言えない!ということに直面するんだろうか。
それより、なんか頭で考え過ぎ?

何だか、これと同じようなことを前にも考えたような。
相変わらずちっとも成長しないなあ。
もう、4月5月の2ヶ月に比べて、この6月7月の2ヶ月の短さといったら!
こんな感じで加速したまま、8月9月の夏休みも終わってしまうんだろうか。
…こういう歌あったな(tomovsky『20years』)。


レニ・リーフェンシュタールという映画監督の存在を、高校の時に美術の先生に教わったのだけど、その作品を今日見てきた。
一部ぎょっとする箇所もあるけれど、普通に楽しんで見られる記録映画(ベルリンオリンピックの)だし、そもそもそう作られている。
実際に映画だけを単体として切り離して考えれば、素直に凄いと思った。映し方、スローの使い方、編集の仕方次第で、こうも「劇的」になるのだなぁと。漕艇競技の撮り方一つとっても、見る人にあのハードさが伝わるように撮ってある映像なんて今まで見た事がなかった。

けれど、今回ばかりはそれなりの時代背景がある事もあり、プロバガンダ映画、ということを念頭に置かざるを得なかった。本当は先入観を持って映画に当たってはマズいのだけれど…。
映像と音声を効果的に使った時の威力を再確認した。
先日の森達也氏の話も思い出しながら。

劇的に演出されたこの映画がいかにして時の政権に利用されたか。
同じ一つの事実でも、そこには見方によって様々な側面があって、良い側面ばかり選び取った場合と悪い側面ばかり選び取った場合では、全く違うものになってくる。
元来、ベルリンオリンピックという出来事に対するあくまで「一つの視点」でしかなかったはずの映画が、それを見たあらゆる人に共通のイメージを植え付け、その視点が普遍的なものになっていく。映画がよくできているからこそ利用されたし、その効果も大きかった。

映像・音声メディアの「わかりやすさ」という力を、為政者の側(ヒトラー然り、今のの政治家然り)がちゃんとわかっている以上、一般の人も知っておくべきだろうと思う。
そうでないと、その力が政治的に利用された時に、ころっと騙されてしまう。
そこで見せられているもの、聞かされているものだけが全てではないということ。
それは、作り手の主観が見せて、聞かせているいくつかの側面でしかないということ。
映画だけでなく、ニュースにしても、何にしても。
鵜呑みにしてしまった方が断然ラクなんだろうけど…そこは頑張っておかないと、後々困る事になるだろうから。
って言うかもう既に今も…ねえ。


見た映画:
    レニ・リーフェンシュタール
       『民族の祭典 オリンピア第1部』
       『美の祭典 オリンピア第2部』

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2006年7月19日 (水)

わからないからこその、決意


電車の中で大声で喋ってる人も、確かに迷惑だけれども、
それを指摘するでもなく、ただただその人を物凄い形相で睨みつけている、周りの人の存在っていうのが、私にとってはそちらの方が、どうも苦手。
何かね。「悪者」見つけた!みたいなカンジが苦手。
社会の諸悪の根源はお前だ!とも言いたげな、どことなく見下したようなその表情が苦手。
鬼の首を取ったように「悪者」仕立て上げて、相対的に自分を「被害者=正義」にしているようで。
理解に苦しむような傍若無人な態度の人っていうのも確かに嫌だ。だけどそれよりも、…何かな。…何か。それよりも、自分は正しい、っていう事に得意になっているようで、危ないなぁって。上手く言えないけど…。

似たような事を、ニュース見ていても思う。
確かに自分の子供殺すのはいけないし、理解出来ない。っていうか、理解したくない。でも、考え続ければ、どこかで理解、できてしまいそうで…。それが怖いのか、いつも途中で考えるのを止める。
止めて、あの人は悪い人だ、で片付けたい。
許されないような悪い事をしたけど、きっと本当に良い人であった事もあったんだろうな、って考えると、怖いじゃん。人を殺すような人は、髪の毛の先からつま先まで全部悪い要素しか無い人なんだ!っていうのじゃないと、怖いじゃん。そうでないと、「自分とは関係無い」ことに出来なくなるから。
怖いこと、理解できないことがあると、「自分とは関係無い」ことにしたい。
だからニュースは、物語を仕立てて、悪者をより凶悪に仕立てて、わかりもしない犯人の心情を勝手に推し量って、「自分とは関係無い」ことにしてくれる。
そうでないと、自分もいつか、同じ事をしてしまうかもしれない、という可能性にぶつかってしまう。
そしてやっぱりそれが本当なんだと思う。100%正しい人なんていないし、100%間違ってる人もいない。物事の多面的な側面が、どう転ぶか、という違いしか無い。究極の状態では、善悪の判断も吹っ飛んでしまうんだろう…。
そこのところを完全に忘れて、思考停止して、あの人は悪人だ、けしからん、しか思えないっていうのは、それこそ怖いよ。
犯人を擁護する気は無い。いわゆる心の闇、というものがあったとしても、あまり興味は無い。例えそうやって究極の状態に置かれたとしても、そこでは人として、何としても踏みとどまらなくてはならないと思う。
しかし、間違いを犯した人に対して、思考停止して、自分は関係無いと信じきっている「善意の人」というのが、どうも…違うんじゃないかなぁって。そして「世の中は酷くなったものだ!」とか嘆かれてもなぁ。

今だけの話ではない。ニュースを見れば、いつでも必ずどこかに「悪者」は居る。
ある意味、餌食だと思う。理解出来ない領域、理解したくない領域、そこから目を背ける為の、「悪者」という分かりやすい解答。「善良なる一般市民」に与えられる解答。
でもそこで分かった気になってはいけないと思う。本当は答えなんて無いよ。全く関係無いことでもないよ。
どうしてそうなってしまったのか、わからないし、状況によっては、自分が同じ事を絶対にしないという保証なんて無いから、
せめて、出来る限りは、いい人でいよう、穏やかでいよう、それしか出来ない、と。
さっきからいびきをかいて眠っている猫を見ながら、思った。


しかし本当にレポートが書けない。
周りの何かに触発されて、その反応としての言葉ならいくらでも出て来るけど、最初の問題設定から完全に自分の中から出すとなると…さっぱりだ。さっっっぱりだ。
今日のテスト(文章)も、勢いに任せた自動筆記状態。追いつめられて、土壇場で出て来る言葉っていうのは、意外と素晴らしいか、やっぱりとんでもないか、どちらか。分の悪い賭け。
あーもう。がんばれがんばれ。


読んだ本:ソシュール『言語学原論』 

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2006年7月12日 (水)

ノックアウト

何だかメンテナンスでブログ使えないのは有料の方の話だった様子。ごめんなさい。
まだいまいちシステムがわかっていない。使い方も、もっと色々出来る筈なのだけど。

しかし今日のクーラーは酷だった…3コマ連続で低温+風直撃。やられました。摩擦熱で何とか生き延びました。
もっと席選びとか対策をせねば本当に体を壊す。

また横浜市立図書館に行って、限度まで本を借りて来る。
今日は書庫からも出してもらったりして、本を選ぶ時の楽しさといったら無いのだけど、貸し出し手続きを経て、いざ全部抱えてみると(勿論バッグに入る筈も無く)、写真集を含めて大きい本ばかりだったのでかさばるし重いしで、帰りが大変だった。

しかもレポートの参考にと思って借りてきた本(『ソシュール言語學言論』)、旧かな遣い&漢字が旧字体。余計読むのに時間がかかる予感。そして思った通り、帰りの電車の中で数ページ目を通して挫折。
書庫から出してもらった時によく確認しなかった…仕方無い。腹を据えていこう。
でも、旧仮名遣いの時代には、もう既にこういう考えは伝わっていたんだなぁと改めて思った。凄く新しい考えかと思っていたので尚更ギャップを感じた。
しかし、私が今まで知らなかっただけのこと。

改めて、折角今までの凄い人達が一生かけて編み出してきた考えを知ろうとせずに、「自分が」「自分で」何か新しい事でもしようとか考えていた事が、いかに無謀だったかと思う。
それでは新しい境地へ行ける筈が無い。「自力で」頑張ったつもりが、過去の人達がとっくの昔にしていた事を繰り返していただけだった、っていう事も大いにありうる。と言うかほぼそうやって終わりそうだ。
今まで、先達が何を考えて、説いてきたのか。それを知らなければ、「今」を生きている事にはならないのではないかと思う。
現に、私は旧仮名遣いの時代の言語学すらろくにわかっていなかったわけだ。
新しいことなんて、軽く口に出来る事じゃない。
もう本当に、どこを向いても知らなかったことだらけ。そして知らない領域がまだまだ延々と。
これ大学4年間だけではどう考えても消化しきるなんで出来ないな。それどころか、一生かかっても…どうだろう。

色々な意味で、ノックアウト。


読んだ本:
    佐内正史 『俺の車』『鉄火』
    梶井基次郎『檸檬』
    中島らも『ガダラの豚 2』
    
   

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2006年7月11日 (火)

真仮偽

色々考える。考えなくていいような事も考える。
考えていい分際なのかわからなくても考える。


昼休み、12色環をいじっていたら隣の部屋から3年生に呼ばれた。

スクリーンや音響装置を備えている大学内の一室の、より良い運営についての会議。
飛び入りで加わって、印象を尋ねられ、一言二言思った事を述べる。
だいたい問題はこんな感じだと思う。
放課後に映画とかサッカー観戦とかを企画して実行していたのだけど、これがなかなか1年生が来ない。2年生以上にしても特定の人しか来ない。
人が来ないと企画を考える側のやる気も下がるし、元々人が来ないとわかっていながら企画持ち込む人も居ないし、部屋の管理も大変だし、という話だった。
しかし何もしなければ益々存在を忘れられてしまう。いっそ自由開放にしてしまおうか、という話もあった。
(ってかこんな事を部外者の私が書いていいんだろうかと思う。駄目な気がするけども。)
現在の運営体系については全くわからないので管理の大変さについては何も言えないが、何だか完全に悪循環だなぁと思った。危機感が空回って無力感…というか。

でも、人を集めるっていうのは、本当に難しい。
自分の行動を決める。それぞれの決定は何気ないものなのだろうけど、その決定に対して、外からの影響というのは結構非力だと思う。どんなにPRしてもたいていは、本人の「なんとなく」の判断に勝てない。ましてやこちらに全く興味を持っていないゼロの状態の人をその気にさせるのは大変だ。
本当に暇で暇で仕方無いような人だって、必ず来てくれるとは限らない。いや、暇で暇で仕方無いような人は、それだけ面白い事に飢えているだろうから、それだけ、面白いかどうかの判断も一層シビアになるかもしれない。サークルやバイトの予定が入っている人も、当然自分の予定を優先させるだろう。
いずれにせよ未知の領域に足を踏み入れる選択はなかなかしてもらえない。実際私もしにくい。

そういう予定とか、「なんとなく」のフィーリング的な選択に打ち勝たないと、人は来てくれないんだよなぁ。
今まで、友人を誘っての動物園案内企画を何度かやっている経験上私もよくわかる。
面白い事をやっていれば、自然と人は来ると思うのだけど。そう簡単に面白い事はできないようで。

というかそもそも何の為の部屋なのか、何の為のチームなのかが私はよくわかっていない。
ただ楽しもう、っていう場なんだったら、別に楽しむ場は他にもある。楽しむだけならば、映画にしたって何にしたって、都会へ出たほうが楽しめる。
ただの緩いサークル的繋がりの共同体であるなら、閉鎖的にだってなるだろうし、元々何らかのサークルに属しているような人があえてその中に加わってくるとは考えにくい。

何となく、映画好きなら映画好き、ロック好きならロック好き、で固まっているのが今のうちの学年のように思う(自分のカテゴライズすら出来ずにはぐれている私に言われたくないだろうなとも思う)。その「同趣味」の境を、壊して行く場になれば面白いと思う。折角面白い人が揃っている(イメージ)んだから。
何か、人を集めるには、現在分断しているサークル(サークルそのままの意味としても、また友人の内輪のつながりっていう意味としても)をつなげる場になるなら、その前に自分達がサークルになってちゃ駄目だと思う。「自分達」という認識がある時点で駄目なのかもしれない。全部取り込んで「自分達」に入れてしまう勢い、と言おうか?

あの部屋と、図書館のメディアブースで何が違うかって言ったら、人が、しかも知らない人が居るか居ないか、という違いしか、思いつかない。メディアブースは個人か、仲間内でしか利用しない。
でもあの部屋ならば、誰にでも開かれている筈なんだから、自分と違う趣味の人と話したりできる、私はそれが魅力だと思う。この際何を放映するかとか、そういうのも大事かもしれないけれど、居る人っていうのを…もっと有効に使えないかな(…と、何も知らないので好き勝手考えてみる)。
私なんかはまだ映画の古典とかさっぱりわからないから、そういうの詳しい人が一人でも居て、教えてくれるんだったら教えて欲しいと思う。別に正しくなくていい。いろいろな人のお勧めを聞く事に意義があると思う。広げる作業。きっかけ作業。

仮にそうした場になって、それでも違う趣味の人は相手にしない、教えてもわからないだろうから教えないし、興味の無い事なんてどうせ聞いてもわからないから聞きたくない、っていうのなら、それはその考え方が間違っていると思う。閉鎖的で、話の通じる「自分達」だけで閉じこもっていたのでは、やる事だってたかが知れてる。外部とか他者に発信していく気も無いのに、メディアとか。何言ってるのっていう話だと思う。
ただ楽しみたいだけなら、…そりゃ、仲間内の方がやりやすいだろうけど。もっと志は高い筈だ。

何か偉そうに書いたけれど、たまたま私が違う趣味とか違う立場の人と喋る事を面白いと考えるから、こういう考えになっただけなのかもしれない。
でも、面白い事やるしか無いんだと思う。知られていない、っていう状況もあるかもしれないけれど、近付き難かったり、あんなの面白くないよって言われたりするのは、やっぱり今までしていた事に対してそういう現実があるんだと思う。だから皆焦ってた(多分)んだと思う。
結局昼休みの段階ではまとまらなかったからどうなるかわからないけれど、管理放棄っていう事になったら残念だ。


っていう事を延々考えたり。
あと今日は、森達也さんの講演を聞きに行った。
ドキュメンタリーの短編映画を2本見て、あとは話。質疑応答。
何か周囲の人が熱心で、そういう中にあると冷めるという性質がまたも浮上したが、いつもと違う視点の話を聞くのはやっぱり楽しい。
この前メディアが結構大騒ぎしていた北朝鮮のミサイル、実弾は入っていないし着弾したのは公海上だから、国際法上は何ら問題無い実験だったっていうのは、知らなかった。

あと、メディアリテラシーという言葉を久しぶりに聞いた。
つまり視点を変えてみるということだという。
報道は中立だとか、制作者の主観を入れてはいけないとか、そういうのは幻想であり、全てのメディアには制作者の主観が入っている。そしてそれで良いことだ。
悪いのは制作者が、その個人のものに過ぎない一つの視点を一般化して「中立・客観」にしてしまうこと。
そしてその視点によって作られた作品を、視聴者が「中立・普遍的なもの」として受け取ってしまうこと。

気持ちのゆとりが無く、漠然とした不安の中、「わかりやすい」ものを求め、「敵」を作りたがる。
そういう心理があるという怖さ、そしてそれを「中立」の形で助長するメディアの怖さ。
これは、「正常で善良な我々」と「異常で凶悪な彼ら」を完全に分けたがる昨今の傾向(きっかけはオウム事件なんだそうだ)ともつながる。
安心させる事を言うと数字(部数・視聴率)が下がり、危機感を煽ると上がるという例もあがった。
安心しているのが不安…不安を作って、その不安の原因たる「敵」を常に設定していないと、相対的に「正義」である「我々」という図式が崩れてしまうという不安。屈折しているけれど、そういうものらしい。
そしてそういう不安を煽る力を、メディアは充分に持っている。

でも一番思ったのは、そうやって、「メディア駄目だねぇー、騙される人駄目だねぇー」と思っている私もまた、「知っている私」と「知らない誰か」を分けている、ということ。
知っているだけで、ふふん私は騙されてないよ、とある意味での優越感?に浸れる。おかしい方向へ流れてるのは、私の所為じゃない、少なくとも私はその流れに乗ってはいない、って。でも実際は何も出来ていないわけだ。自分は知ってるぜ、ってだけで満足して、少数者である事もちょっと誇って。
悪いのは他の人、私は悪くない。っていう、結局自分も単純な二項対立に陥っている。それバカだねーと思う。

知っている、知ってしまったっていうことの重みというものを思う。
知った事を自己満足のうちに留めてしまうことの愚かさを思う。
知った事を鵜呑みにせず、常に、吟味していくことの大切さを思う。

知ってるのに、知らない人と何ら変わりないような行動をしておいて、「本当はわかってたんだ」っていう自己弁護をする、それが一番駄目だ。知らないよりずっと駄目だ。


今日も長々と。
あ、明日からメンテナンスか何かでブログ2日間書けなくなるみたいなので、しばしさようなら。


読んだ本:中島らも 『ガダラの豚 1』

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2006年7月 6日 (木)

普遍の思いなんてもう

雨らしい雨が一日中続いた。
しとしと降る雨よりこういう雨らしい雨の方が好きだ。濡れ方としても、霧雨にさらされて少しずつ湿っていくより潔いじゃない?

普遍的なものなんていうのは、もう無いみたいだ。
あんまり無いから探そうとしていたのだけど、もう無いんです、無くなっちゃったんです、って。

自分の考えていることは全ての人に普遍的な筈だ!と決めつけて他人に押し付ける方がより危険だとは思う。
だけど、普遍の不在によって、はぐれてしまった感はある。不安になって、宗教に走る人の気持ちも何か分かるわ(しかし今まで何が普遍的とされていたのかがいまいちわからない。頑張れば報われる!、未来は明るい!みたいな感じか?)。

みんな一緒、っていうの、安心するしね。同じ基盤に乗っていて、ある程度の同じ知識を共有している。そこはみんな一緒っていう価値観があったから、対話する気も起きたわけで。
でもいろいろな事件とかでどんどん崩れてきて、もう、諦めだもんな。

そりゃあ、そもそも普遍神話は崩れたのだろうけれど、それ以上に、つながる要因を否定し過ぎている気がする。意図的に。何か異質なものに出遭ってしまって、これは私と違う、って嗅ぎ付けたが最後、その不安を完全に自分と関係無い存在にしたいが為に、異質なものを「関係無いもの」として仕立て上げる。
その後は、”あの人達”には何を言っても通じないのだ、という、思い込み。そして、通じさせる為の言葉による手段も放棄して、一方的な誹謗中傷と自己弁護。溝は広がるばかり。
「私たち」と、「それ以外」を完全に分けてしまって、他者を極力排除して、仲間内だけで楽しくやる。考え方の違う人なんてそもそも相手にする気は無いんだから、「みんな一緒」の状態が(幻想でも)いくらでも作り出せる。「私たち」だけの世界。そりゃ楽しいよ。
でもそれじゃ駄目だって!狭いって。楽しい、って書いたけど、それはラクなだけであって、本当に楽しいか?
それに、狭くてもいいって開き直られると、広くしよう、それでも同じ所を探そうとする側が、一層やりにくくなってしまう。

これが全ての人に普遍的な事だ!なんて事はもう無いのかもしれないけれど、それでも、全く見知らぬ誰かとどこかで重なる部分があるんじゃないか?って思わなければ。思えなければ。広がるものも広がらない。
そしてそういう部分を見つけて行くことが、壊れた普遍性の後に残された唯一の希望なんじゃないかって。すごく大変なことだけど。想像力について思うよ。
…こういう事を考えるのは眠いからなんだろうけど。


今日少し用事があって母校を訪問した。
ああ、此処はもう完全に私の居場所では無いな、と感じて、少し寂しかったり、どこかで嬉しかったり。

やりたい事ができないとか、話したい事が話せないとか、そういうもどかしさはさておき、その何もしない状態、何も喋らない状態に押し留めているのは、自分以外の何者でも無いっていうのは、これこそ、どうしようね。


読んだ本: 梶井基次郎 『檸檬』

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2006年7月 5日 (水)

反省会

この頃何だかわからないけど楽しいんだ。周りの友達に「今日はご機嫌だね」とか言われる位。

でもそういう楽しい時にどこかで感じる、この違和感は何か?と思う。そして考える。
きっと、「これで楽しさという満足を感じてしまっている自分」というものが、何かとてつもなく愚かな気がして、そこから焦りが来るんだ。焦り、もう無くなっちゃったかと思ってたけど、あったな。まだ。
今で満足なんて。これで足りるなんて。とんでもない。
でも慣れている。前よりもずっと慣れてきている。何か真に足る事を始めたわけでもないのに、知らない事はどんどん広がって行くのに、慣れだけは確実に進行している。慣れた先に何があるのかは考えたくない。考えたくないから何か適当な楽しみを見つけてそれで無理矢理満足しちゃってさ。見なくちゃいけないところから目を逸らしておきながら、楽しい、だなんてよく思えるね!!

馴れ合い。緩やかな共同体。そういうものから得る安心はもういらないし、私は其処に居るべきではない。
勿論友達は要るよ。確かに一人じゃ不安だよ。味方が欲しいよ。
でも、どんな自分だろうが無条件で味方になってくれるような友達、有り難いけれども、それで本当に強くなれるか?甘えと錯覚しか生じないんじゃないか?まやかしの安心程、怖いものは無い。
初対面の人達や、いつでも味方で居てくれるとは限らない、バカな事すればすぐに見放されるような、油断ならない人達を、いかにして味方につけるか、そっちの方を頑張らなくちゃ駄目だと思う。
こう、味方っていう単語を連発したけど、ここで言う味方っていうのは何だろうな…敵の反意語でもないんだよな。敵ならまだいい。反意語はむしろ、自分に無関心な人(これが一番淋しい)。

常に苦しんでいろ、とは言わないけれども、楽しんで一向に構わないんだけど、それが本当に楽しいのか、問う事を止めてしまったら、もうそれまでだ。という事を忘れてしまったら、もうそれっきりだ。


読んだ本:枡野浩一 『君の鳥は歌を歌える』 
観たDVD:ビクトル・エリセ 『エル・スール』


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2006年7月 4日 (火)

avant

↑今日調べた単語。覚えたい単語。常に忘れないでいたい単語。いつでも実践していたい単語。
時代の先端。前衛。常に新しいこと。「アバンギャルド」の「アバン」ですね。
前衛なんて言うと何だか腰が引けてしまうけれども、頑張って付いて行って一緒にいたいような。辞書で引いた時、そういう印象を持った。
それと意味は変わってしまうけれども、この今の、一秒一秒の自分が、生まれてからずっと生き続けてきた自分の最先端なんだと思うと、こりゃあ、うかうかしてられないなぁと。身が引き締まる。


また例の雑誌探しに今日は渋谷行きました。タワレコの7階でちゃんと見つかったので一安心。
折角なのでいろいろな海外の雑誌を立ち読みした。
CRASHっていう(違うかも)フランスかどこかのファッション雑誌がカッコ良かった…うーんカッコ良かったって言うと安っぽい感じがしてしまって失礼だな。
何かこう、見ていて思わず、自分も美しくならなければ!!と真剣に考えてしまうような。実際考え込みました。

その他でも、芸術系の雑誌とか、やはりグリッドシステムを取り入れていると思しき雑誌は沢山あった。
センスの良さそうな雑誌は大体使っていたように思う。特に海外の雑誌が多かったような。やっぱり整然としてて見栄えが良い。

あと、いとうせいこう氏が編集長の噂の雑誌「PLANTED」、探して見たけどやっぱり面白かった。
園芸雑誌って聞いた時、「趣味の園芸」みたいなやつとは違うんだろうなぁと思っていたら、予想通りその枠を見事に超えて、芸術とかファッションとか思想の要素も入り込んでいる。それでいて、植物、っていう軸はちゃんとある。
曰く、そもそも”雑”誌なんだから、カテゴリーにとらわれないで自由に何でも入れよう、という事なんだとか。
こういう事をやってもいいのか!こういうのいいなぁ!って。
色の配置とか写真とかも綺麗でにぎやかで、見ているだけで楽しかったし。
なんだかいいですね。いとう先生(スペ中)。


にぎやかさ、という要素を、私は非常に大切に思う。

以前、デザインにおける幾何学や、テキストや写真の配置におけるグリッドシステムの存在を教えられた時、整い過ぎていて気持ち悪いという事態は無いのか?と先生に聞いて、無い、と一蹴された。
確かに、幾何学や格子線を利用した作品の美しさは凄い。コルビュジェとかルイス・カーンの建築を見れば、幾何学がどんなに凄いかがわかる。優れたデザインや自然の造形など、美しいものの根底には何かしらの法則があって、それは人間のインスピレーションを超えた所で存在しているって、わかった。
それは、前質問した時よりもわかってきた。だからそれ自体を否定する気はもう無い。

でもね、やっぱりそれプラスで何か、にぎやかさが欲しいんだよなぁ。
それはごちゃごちゃしているのは違う。ごちゃごちゃしていると、にぎやかなのは、自分の中では違うんだ。両方好きだけど、両方は同じではない。うーん。何と言うか。

…色かな。そうか。あとは色だ。
幾何学にしろ格子線にしろ、その無機質な上に、にぎやかな色を乗せればいいのか。そうすれば好きな感じにできるかもしれない。
いずれにせよとにかくやってみるしかないか。いろいろと。


読んだ本: 塩野七生 『サイレント・マイノリティ』

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2006年6月30日 (金)

つきぬけた

暑いですね。
こんな日には仕方なく、ただでさえ大きな顔を更に大きく見せるという魔法の帽子(!)をかぶるしかありません(帽子が非常に似合わない)。

何だか原因不明のワクワク感が押し寄せています。

「世の中なんて腐ってて当たり前。腐ってない世の中なんて、あったためしがない。そんなことにクドクド幻滅しないで、俺らはブンブン楽しくやってくぜ」
って、飛び込んだバイト先の社長が言ってます。卑屈?違う。宣戦布告だ。

大学出て、結局オフィスレディになっちゃったらどうしよう(これは心配しなくても全然なれそうにない!)とか、そういう不安はありますよ。今、散々この社会は駄目だ〜とか言っといて、結局自分がそっち側に取り込まれてしまったらどうしよう!と考えると笑えないですよ。
でも、面白い事やってる人は、居るんだよ。実際。そりゃ数にしたら少ないだろうけど、居るんだよ。
そういう人がいるっていうのは、仲間がいるっていうことでもあるし、ライバルがいるっていうことでもある。

そういう人に出会う度に、勇気づけられ、同時に悔しくて焦ったりする。

面白い事がしたいなら。
出来なかったらどうしよう?とか、考えてる暇はもう、無いでしょ。
やるしかないでしょ。例え上手く行かなくても、そこで諦めてしまう程、ヤワな自分ではないでしょ。
何が面白いか、面白くないのか、それは自分が決める事。周りに心配かけるのはそりゃ、良くないけど、周りからの評判とか、そういうのに縛られちゃ面白くない。
もういい、今はそのまま走れ!つきぬけろ!
後の事は後が今になった時に考えれば良し!

オモシロ世界は、飛び込んで行けば結構広がっている。ラクじゃない。それでもいい。それがいい。
面白い方へ、面白い方へ。
目標は無い。誰かみたいになりたいとかも無い。そのかわり相当勉強ね。吸収ね。
自分が一番楽しまなくちゃ。

つきぬけた。


読んだ本: ブレヒト 『三文オペラ』

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2006年6月28日 (水)

違いの分からない人間

今日、利き海苔というものをやったんですよ。授業中。
板海苔が1人3枚配られまして、それぞれ

中国産・有明産・東京産

だということで、果たしてどれがどれか?と。
それぞれ食べて、何となく違うと言われれば違うというのはわかったけれど、どれがどれかは全然わからなかった(飲食禁止の部屋なのに、みんなして海苔をパリパリ食べてて可笑しかった)。結局1つも当たらず。

自分が舌の肥えた人間だと思っていたわけではないけれど、あぁ所詮こんなものかと悲しくなったね。
折角違うんだから、その違いを、わかれよ自分!
こだわりとか、手間とか、読み取れなくちゃ何か…作った人の苦労がまるで浮かばれないし、何より、自分が貧しい。

味覚にしても。何にしても。
あぁ、審美眼。

全然関係無いけど、うちの猫は焼海苔が大好物です。

前評判とか、そういうものにいかに自分が依存しているかということだな。
何らかの周りの影響から何かに対して「これはいいものらしい」という意識を持って、それからそれに触れると、大体プラスの印象しか深まらないんだよな。「いいものである」ということはもう決定済みで、そこを疑おうとは思えない。自分がする作業は、その上で「どこがいいのか」を探すことになってしまう。
逆に「全然駄目らしい」という印象の中で、実際に触れても、大体はそれを覆すことにはならなくて、むしろ駄目な面にばかり目が行く。

自分のひ弱な審美眼では心もとないから、「知ってそうな」人の情報に頼っているんだな。今は。今はそれでしょうがないし、そこを疑っていては結局何の進歩にもならないから、それでいいんだけど。
いずれは自分で分かるようにならなくちゃ。自分の判断に胸を張れるようにならなくちゃ。

あ、海苔は北海道のウルップイノリが最高級なんだそうですよ。食べた事無いけど。


幼なじみが横断歩道渡ってる途中で10tトラックに轢かれて、2週間意識不明だったらしい。何か色々痛い詳細を聞いた。でも生きてるんだからよかった!
…もう本当皆さん気をつけて下さい。命あっての物種。


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2006年6月27日 (火)

近頃の胸底

大したことのない生活を送っていると、真面目な話…例えば政治とか国際情勢の話…をするのがおこがましくなってくる。それをお前が言えるのか!と。言える資格在るのか?と。資格なんて言葉が浮かんでしまうのは、もう大分腰が引けている証拠。
なんでだろう…知ってる事は増えている筈なのに。知は力なんじゃなかったっけ? どうしてどうして、知れば知る程、無力感に陥る。
知る。外の社会を知る。それは情報や学習によってだったり、自分の目で見たり。とにかく世界はどんどん広がって、どんどん複雑になっていって、自分は相変わらずこの自分。…いや、違うな。世界は元から広かったし複雑だった。ただ今まで自分がそれを知らなかっただけなんだ。
…いずれにせよ社会に立ち向かっていく自信がどんどん崩れている。所詮、無知の上に成り立つ自信なんてたかが知れていたんだけれども、いかんなぁ。確実にスケールが小さくなってる。波に埋もれてしまっている。


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2006年6月22日 (木)

こうしてわたしはすれっからしになっていくんだわ

苛立つのは余裕が無いからだ。
悔しさを感じたところで何もしない。この何もしないっていうのは何事だろう。
諦念に負ける…というより、もはや戦ってすらいないんじゃなかろうか。すり抜けちゃったんじゃなかろうか。

身の回りの何かしらを、下らないと否定するにしても、そう切り捨てられる程の事を自分はやってんのか?っていうかこの先もできるのか?  と思うと、とても後ろめたい。

かつて存在した自分の中のあらゆる基準というものが、色々な影響によって散々に崩れた今、好き/嫌い、や、良い/悪い、といった、まず自分が受ける印象が信じられない。かといって壊された後に宛てがわれた「より高い次元での基準」にもしっくりと順応できない。順応するには時間がかかる。
…何か、変わったのは確かだけれど、変わりきれていない。どっちつかずだ。

難解なもの、今まで触れた事もなかったものに触れる。それは確かに従来の「ただ与えられていたものを受け取っていた」鑑賞の仕方とは異なる。自分で考えなければならないから。
観客になりさえすれば自動的に感動なり笑いなりカタルシスを与えてくれていた「娯楽」に比べれば、遥かに労力がいる。知識がいる。だから難解なものは、メジャーにはなり得ない。少なくともただでさえ現実生活に疲れた一般の人々が芸術に求めるものは、おおよそ非現実の中での娯楽であり、癒しなのだから、わざわざその場で難解なものを選び取る人が多い筈が無い。
現代芸術は…娯楽や癒しを目的に作られるものではない。娯楽や癒しを求めるような観客を必要としないらしい。そういう方向を敢えて選ぶということは、一般的なエンターテインメントからどんどん離れるということだ。
自ら狭い所へ入って行きながら、自分が「少数者」であることを嘆き、同時にどこかでそれを理解しない「多数」を蔑んで悦に浸るようなインテリにはなりたくないと強く思う。自分だけがわかれば良いというのでは、それでは…周りは変わらない。世界は変わらない。どうせわからないんだろうから、わかってくれなくたっていいよっていうのでは…。

私は知らなければならないと思う。知らないのに否定は出来ない。知らないのは悔しい。どうせ知らないでしょと言われるのは悔しい。
何目指してるのかは知らないけれど、今悔しいから今知りたい。
知っても知っても知らないことだらけだ。無知の知、なんて呑気なこと言ってられない。


…あーもう、何かもう、言葉ばっかり偉そうでやんの。もう嫌だ。本当嫌だ。何だか全てが言い訳のようだ。
その日言えなかった事を書く。その日の行動の弁明を書く。そんなブログなんてやめてしまえ。


今日読んだ本: イプセン 『人形の家』 (主人公の名前、ノラだなぁと思って)
今日観た映画:『TRICK劇場版2』(高校の友人に誘われて)

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2006年6月20日 (火)

やるしかないの。

また一週間が始まって、今週が終わってしまったらもうすぐそこには7月が控えているのですね。
夏至を過ぎてしまえば、またどんどん日が短くなっていくのですね。
(そうか、夏至は明後日か…夏至の日には自転車で土手沿いを走って海まで行こうと思ってたんだけどなあ。そうかぁ平日なのか。しかも水曜か。)
何か、時間の経過にどこかでめちゃくちゃ怯えながら、近頃はもう目の逸らし方を覚えてしまったような…そんな感じがする。イラレっていう、都合の良い対象もあるし。何してるんですかね本当。

映画にしろ芸術にしろ文学にしろ、私が知らない事なんて莫大にあるわけで、一つ一つ消化していっても、得ることはいつも「知らない事だらけだ!」ということだけです。その背後に、更なる未知の存在がありありと浮かんでくる…果てが無い。そもそも一つ消化するにも、一度や二度見たり聞いたり読んだりした位で分かった事には全くならないんだから、更に果てしない。

知らないこと、分からないことが、いちいち悔しい。その悔しさをどこにぶつけよう?ぶつける所無いんですよ。悔しさと共に、知る作業を続けることしかできない。それ以外は全て、逃避になる。今している事は紛れも無く逃避だ。
修行かこれは。そうか修行か。

すごいものを見た時に、あーそりゃすごいねぇーって感心してやりすごす事ができれば、ラクなんだろうけど。それをすごいと認めた瞬間に、反射的に対抗意識が芽生えてしまうタチだから、もう今あらゆる方向に身構えているんだよな。すごいこと、その一つ一つから「挑まれている」ように感じてしまう。
売られた喧嘩は買うといってもさ…全部買ってたら、ちょっとそれ戦えるのか!?負けるんじゃないか?
体力は大して心配してないけれど、時間も限られているし、映画にしろ何にしろ、先立つもの…(日本銀行券)だって馬鹿にならないし。現に今は、写真に割く分が全く無い。
しかし相手を一つに絞るにも、その対象を何にすべきか、自分じゃ決めようがないもんなぁ。優柔不断だから。

そんな労力使って、知りたい事を知ったとしても、それでどうなるっていうのさ?っていう残酷な問いもあるしね…
そんなのわからない。これから自分広げようっていうのに、広げた先にあるものが何なのか、狭い今から想像できるわけがない(もしかすると何も無い、っていう切ない予想はある)。半分本心。半分言い訳。

お先真っ暗だ。あー将来とか未来とかいらないなー。今だけじゃ駄目かい。とは言え今も駄目なんだけどさ。

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2006年6月10日 (土)

何だかなあ

午前中は、睡眠に睡眠を重ねたので、今週分の睡眠不足を清算。来週分もこれで大丈夫。だといいんですけど。

大学の同じ課程の人達と飲み会だった。
久々にああいう場に行ったので楽しかった…はずなのに、どうして帰りの電車の中での脳内BGMが「さよなら人類」(たま)だったんだろう。延々と。 …延々と。何故?

飲みの席で話聞いてて、何か皆忙しいんだなぁと思った。
サークルとかバイトとか部活とか。掛け持ちとか。ちょっと驚いた。自分、ヒマどころの話じゃないなこれは。自分の日々の生活の感じをひとしきり話したら、笑われた末、ダメ人間扱いされたしね。
まぁね。ダメっすよ。ここのところ、いよいよダメだよ。夏休みが怖いよ。果てしないよ。
あと本当に「今まで怖くて声掛けられなかった」的なことを幾度と無く言われた。席替えした先で喋っていて、気付いたら男子に姐さん呼ばわりされていた。
悪いのは私ですけど。こうなったらもう開き直るか。でも引きとめてくれる友人が居た。ありがとう頑張ります。

なんだか最近の一連の自分の行動は、もう完全に逃避になっている。マズいね。これは。
与えられた目標に向かって一直線に頑張る、的な体育会性質を脱却したい一方で、やっぱり何か与えられないと何も出来ていない自分が現に居るわけです。
中途半端な事はしたくないとか言いつつ、その自分にとっての「中途半端か否か」の基準は、他の人に認められるか否かにあったりするような気がする…本当嫌ですね。散々外からの基準というものを否定しておいて、結局それに頼っている、っていう。そう認めるのも悔しいけど、だから現に今ふらふらしてるんだと思う。
この調子だと本当、何も出来そうにない。
こんな具合に一体何日浪費してるんだろうと思うと、自分で自分に呆れるわ。
呆れるわ、とか無責任に言ってられる状況でもないんだけど。


サルになるよ  サルになるよ

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2006年6月 1日 (木)

本当に怖いのは

毎週凹まされる水曜日、いつになく穏やかにこの日を迎えた今日は…
35歳の自分について書くということをした。何でも、35歳以降のフリーターはフリーターとは呼ばず、肩書きは「無職」になるんだとか。つまり境界ということか。その時期を迎えた自分の姿を想像する試みだった。
そして自分は結局何者にもなれず、充実したセカンドライフを送るおじいちゃんおばあちゃん達と動物園のボランティアをする事しかしていない像を描いた。というか描くというよりこのままいけば自然にそうなるだろう、ということでほぼ自動描写。動物園を訪れる自分と同世代の家族連れを見るにつけ惨めな思いをする、仕事にしろ子供にしろ何も「生産」していない事に対する社会からの疎外感を間に受けている、だの、云々。しまいに自分は唯一の将来の夢である長寿すら叶えられずに終わるだろうという結論にまで至った。
悲劇かな。悲劇なのだろうが、全く凹まなかった。他人事だと思っているわけではない。ニート、怖いと言いながら現に今ですら社会からはぐれてしまった感があるので、今更改めて予測を立てても別段新たな恐怖も湧かなかった。年齢を重ねることで増す取り返しのつかなさ、というものをまだ甘く見ているな、とは思うけれど。

でもやはりそれは怖くない。何もしていないことは、確かに少しは怖いけど、本当に怖いのは、何かに全てを注ぎ込んでやり続けているうちに待ち受ける、「自分の理想とする世界には、自分が必要ない」という結論を悟ってしまう瞬間だ。
自分はそこにいなくていい、むしろいない方がいい、という事を自分で認めざるを得なくて、それに気付いていながらも、そこに身を置きたい、無様でもしがみついていたい、っていうあの状況。あの状況が、恐ろしい。諦めた方がラクだし、誰も諦めるななんて言わないし、聞こえるのは無理しなくていいんだよっていう声だけ。そういう状況下でも尚、殆ど自分のエゴだけでそこに踏みとどまっている時の惨めさ。しかもそれで頑張っても上手くいくわけでもない。それまで「頑張って」いたからこそ、自分より凄い人がどれだけ凄いのか、どれだけ自分が取るに足りない存在なのか、は自分が一番良く分かる。段々自分の中からも、無理しなくていいんだよっていう声が聞こえだして、自暴自棄になって、しかしそれを取ったら一体自分に何が残るの?と思ったりもして。

これが今の自分の中での、どん底像だ。去年のちょうど今頃の状況。当時の私にとっての「それ」とは、ボートだった。頑張る、と、無理する、の違いに悩んだ時期でもあった。そしてその見定めを誤った結果が、一番大事な大会を前にして、疲労骨折により全力で漕ぐ事のできなくなった自分。部をまとめる立場から、クルーのお荷物的存在に転落し、そのクルーを外れるまでの葛藤や、外れてもなお部に居座り続けたことの後ろめたさは、ちょっと今も思い出したくない。

何かに全てを注ぎ込んでいると、いつかそういう恐怖にぶち当たる。果てしない惨めさを体験する。その対象が好きであればあるほど、程度が酷い。
何もしていないということは、漠然とした不安こそあれ、それは切羽詰まった恐怖にはなり得ない。ただ何となく時間だけが経過していくだけで、それを恐怖と呼ぶのはおこがましい気がする。今自分は完全に後者の側に居るので、偉そうな事を言えたものでもないけれど。
怖さの度合いで言えば前者の方がずっと大きいのに、それでも前者の側に居たいんだなぁ。いずれまたあの状況、もっと酷い状況が来るかもしれない、と思うとぞっとするのに、そっちを選びたいのは何故だろう。その方が面白いからだろうか。何だか自分にとって全ての基準は、面白いか否かだな。

どんな状況に置かれようが、その自分を自分が認めてくれるかの問題なのではないかと思う。自分が自分の味方でいてくれる限りは、どんなに凹んでも元気に生きて行ける。自分に見捨てられると痛い。

こんな事を考えても、穏やかな日は穏やかなので凄いと思う。

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2006年5月28日 (日)

甘ったれ!

高3の時の友達とフィルムセンターに行く。
久しぶり…と言っても、先月にも会っていたからせいぜい一ヶ月ぶりなのだけど、本当に久しぶりな気がした。この5月あっという間に過ぎて行くように思っていたけど、やはり一ヶ月は長いなと思った。
映画は小津安二郎だった。今まではテレビで見てもさして集中していなかったので、小津作品をきちんと見たのはこれが初めてになる。「押し付ける」映画の対極にあるなと思った。淡々としている。映像はさりげなく整っていてきれいだ。場面場面のつながりとか間とか、例えば、家の間取りがわかる、とか。

見終わった後いろいろ話す。懐かしさもあるけれど、居心地が良い、と言うか、話していて楽しくて仕方が無かった。だけど、やはりどこかで、つくづく自分がいかに周りに依存しているかという事を思わずにはいられない。自分を面白がってくれる人、に依存している気がする。この人はわかってくれる、という安心(甘え)があって話すことは、楽しいけれど…何か狭いよ。楽しいけれど、これだけでは駄目だ、これはコミュニケーションとは呼べない、という思いが強くなる。
周りに自分を認めてもらいたい欲求で一杯なのに、わかってくれないならいいよ一人で居るから。っていう状況が今の自分なんじゃないか?しかもわかってもらおうという努力もしないで。居心地の良いところにしか居ようとしないで、あとは逃げて。甘えている。身勝手だ。…何か物凄くそういう自分が気持ち悪い。いつまで自分で自分と遊んでいるつもりだろ。狭い狭い。
自分を広げるというのは、こういう甘えの中では、「自分」を可愛がっている中では絶対に不可能だって、知っている筈なのに。「自分」なんてものにこだわってる場合じゃない。どこかギリギリのところまで追い込んで、極限になって反射的に起こした、何かしらの行動に対して、あれ、自分てこういう事するんだ、という発見をした瞬間、それが自分を広げるっていうことなのに。全く何やってるんだかね。

今日見た映画:『戸田家の兄妹』

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2006年5月24日 (水)

引き続き引きずり中

今日も時折雨が降ったが、空気が湿っぽくなかったので、進んで浴びた。夜は流石に傘をさしたけど。

一人で居る自分が好きって昨日書いた。しかし完全なひとりぼっちはつまらない。
周りから何かしら触発されたり、自分の何らかの行動に周りが反応してくれたりすることが面白いんだから、やっぱり自己完結では寂しいものがある。強がっても、やっぱりどこかで自分をわかってもらいたがっている。
集団でいると安心、とか、何でも周りに合わせる、とかそういうのが嫌なんだな。単に群れるのは嫌なんだ、でも連帯なら、進んでしたいと思う。

いつも火曜は授業も理系だけだし気が沈みやすい曜日だけど、今日はいつにも増して、よくわからないネガティブ。
いつまでこう、ぱっとしない気分を引きずっていくのか。解決法がわからないので仕方無い。安易に解決してはいけない気もするので仕方無い。しかしいつまでもこの状況だと空しいので、何とかなりませんか。

明日は水曜日だ。何だか一週間は飛ぶように過ぎて行くが、一週間前の自分はすごく昔の自分のように思う。実際大して変わっていないのだが、そう感じる。

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2006年5月23日 (火)

逃げている

個人行動ばかりしていると、一人で居るのに慣れてしまってくる。
寂しい。だけどどこかでそういう自分を愛しちゃってる部分があるので事態は深刻だ。深刻だ、と書いていながら実はそれほど深刻に受け止めていないところが深刻だ。この様子だと、いつまで経っても一人なんだろうな。やたら誰かと喋るのが好きなのは、いつも一人でいることの反動なのではないかと思う。
一人で虚勢張ってるよりも、一人では不安で仕方が無いっていう方が、かわいげがあるので生物として強いような気がする。特に女の場合は尚更。…こうなると、強いってどういう事なのかわからない。

今自分がしている全ての事は逃避なんじゃないかと思う。
直感的に嫌なことは避けて、面白そうな方だけを向いて、先の事は全くわからなくて考えると不安になるので極力考えないようにしている、あぁ完全に逃避だ。
自分が今否定している事柄から逃げているのかな。
常識とか世論とか社会的な公理とか、とにかくメジャーなものは面白くないので否定したくて今は避けているけれど、このままずっと避け続けていられるだろうか。自分が否定したところで容易に覆るものでもないし、そういったメジャーなものが存在する社会の中で生きて行かなければならないのだし。その中で、取り込まれずに自分の足でしっかり立って、ちゃんと自分が面白いと思った事をするには、相当な力が必要だ。
いつか負けて取り込まれてしまう時が来るんだろうか、とぼんやり考え、それが不安の種なんだなぁと思いながら、とりあえず今は逃げている。
逃げて逃げて、どこに着くのか、それはそれでおもしろそうだけれど、それでは自分の世界だけに閉じこもった状態なのでやはりつまらないと思う。


気が重いのはいつも同じだけど、面白い事がしたいだけなのに、どうしてこうなるんだろうな。

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2006年5月13日 (土)

根無し草たるもの

1日の濃さは日によって全然違う。当たり前だけど。
起きた出来事の数、会った人の数、新たに得たものの数、そういうのが「濃くする」要素だけど、
でも、何も無い日もそれはそれで意義はあるんだよなぁ。
何もしていないという焦りとか、退屈さとか、そういうのがバネになって、濃い日をより濃くするというか。
と、自己肯定してみたり。
しかしねぇ、しかしだよ、帰宅部たるもの、根無し草たるもの、面倒臭がっちゃおしまいだよ。
何もしなけりゃ、何も起きない。お膳立ても無い。
だから何でもやらなけりゃ。自分から飛び込んで行かなけりゃ。
つかれた〜とか、ねむい〜とか、そういう理由で何もやらないんじゃ、なさけないじゃないですか。
自分は何もしていないという状況に慣れちまってはおしまいだ。
常に焦っていなければなりません。もうずっと焦ってろ。

(昨日の日記より。)

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2006年5月11日 (木)

答えは無い、ということ

水曜の授業は毎度毎度頭の中を掻き回される感じで面白い。
でももう面白い、とか呑気に言ってられる場合でもない。

作者はもう居ないんだそうだ。

作者=作品を生み出した人物、その作品の全てを知っている/握っている人物。
作品は即ち作者の内面であり、作品の正しい解釈は作者こそが知っているのだと思っていた。
作者の「伝えたい事」が託されたものが作品なのだから、その作品に関してはその作者が絶対の存在であり、読者や評論家の為すべき作業ははその作者の意図という核を探す事だと思っていた。

だがそれは大変間違っているという。
まず、その作品に「伝えたい事」があると考えることは傲慢だという。
作者を絶対的権威とすることは盲目でしかないという。
「正しい解釈」なんて存在しないんだという。

唯一の答えは無い、ということ。

そうは言われてもまだ実感が無い。答えは欲しい。答えが無いと不安だ。
急に足元がぐらついてしまったようで…
うろたえる。

まだ理解していない事を書くものじゃないな、余計わからなくなってきた。
自分の中にあった作者像の、重大な転換を迫られていることだけは確かだ。

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2006年5月 6日 (土)

5月6日、立ち止まる

大学入ってから早一ヶ月、思えば私は今まで『何かに乗っかっている状態』を回避しようとしてきたわけですよ。
そもそも大学っていうのもそうだし、権威とかサークルとかそういう、大きいものに乗っかって、よりかかっているのは嫌だって、考えてきたわけですよ。自分の力で、どうにかできないか、って。自分の足でしっかり立って、この世界というものと対峙していかなくちゃいけないんじゃないか、って。
それが早くも行き詰まり感…。きっかけは昨日の唐ゼミ。

大学の情報を集める中でその存在や評判を知るにつれ、あ、凄いなとは思っていたんですよ。
とは思いつつも、どこかで、やっぱり唐十郎っていうネームバリューに依るところが大きいんじゃないかと、穿った見方が拭いきれなかったんです。
でも実際に大学公演・東京公演と見てみて、認識を変えなければいけないと思いました。
確かに唐さんという存在は非常に大きい。しかし彼ら/彼女らは、単にそれに『乗っかっている』だけだろうか?
見ればわかるんですよ。違うんですよ。もう、あれは間違いなく、劇団唐ゼミ★の作品なんですよ。
もうそれは、自分が抱いていたような疑念とはもっと高いところに、存在している。しかも日々進化している。
これはどうしたことだろうって。

自分で、自分の力で、何にも頼らず、っていう頑固さは、言ってしまえば自分にある(と信じたい)オリジナリティを護りたいだけなのかもしれない。
でもねぇ、今までの18年間、いろいろあったとは言っても、おおよそ無難に歩んできた18年間、それで培ったオリジナリティなんてたかが知れているわけで。
それで戦おうったって、そんなに甘くはないだろう、この世界は。

権威とか何かに乗っかってるのはイヤとか、そんなの、格好付けている場合じゃないんじゃないかって。
権威でも何でも乗っかって、踏み台にしていかなくちゃいけないんじゃないかって。

そう、思い始めています。

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2006年5月 5日 (金)

で、どうだった?

って聞かれるのが一番困る。どういう話だった?っていうのも困る。面白かった?っていうのもまた別の意味で困る。

あ、映画とか、お芝居のことなんですけど。

そんな、監督とか俳優が精魂込めて作った作品を、どうだったの一言で片付けられるかっっ!!!!
という反感もあり、言語化出来ない自分はやっぱり理解できてないんじゃないかっていう落胆もあり。

そりゃ、言語化出来ない感情だってあるさ、と自分を慰めつつ。
初めて受けた衝撃を、今まで使い古してきた言葉で表そうったってそりゃ無理があるじゃないかと自分に言い聞かせつつ。

凄かった、としか言えないんだよ。正直。
それ以上言葉を積むと、どんどん離れて行ってしまう気がする。
言葉による再現、はどうやったって映像や音には届かない。だけど、的確な言葉によって作品に肉薄出来たらどんなに良いだろう。
それが出来ないのはひとえに修行が足りないんだな。
修行します。


今日の演劇: 劇団唐ゼミ★  『お化け煙突物語』

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2006年5月 4日 (木)

憲法9条と諦念

今まで受けてきた教育に洗脳されている、っていうのも有るかもしれないが、
それでも私は、憲法9条、特に2項は変えてはいけないと思う。
曖昧だとか自分だけ良ければいいのかとか何とか言われてるけど、変えることでプラスの効果があるとは思えない。

その一方で、どうせ変わっちゃうんだろうなぁとも思う。
変わっちゃったら危ないと感じつつも、でもしょうがないかなぁとか思っている。
呑気だね。

仕方無い?
本当は嫌だけど仕方無いよね、だってどうしようも無いもの、
そうやって思いながら、悪い流れに乗ってしまっているようなんです。
自分も含めて、今の世相。
どうしようも無いって、鵜呑みにして決めつけちゃって、
どうしようも無いって、何もしていないのに無力感を感じてるのが怖い。
何で怒らないの?何で怒れないんだろう。

無邪気に戦争反対を叫ぶ勢力にある種の幼さを感じる一方で、
危機感を持ちながらも、呑気に日々を楽しく過ごしちゃってる自分に嫌気がさします。

諦念、怖い。打破したい。

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