色々考える。考えなくていいような事も考える。
考えていい分際なのかわからなくても考える。
昼休み、12色環をいじっていたら隣の部屋から3年生に呼ばれた。
スクリーンや音響装置を備えている大学内の一室の、より良い運営についての会議。
飛び入りで加わって、印象を尋ねられ、一言二言思った事を述べる。
だいたい問題はこんな感じだと思う。
放課後に映画とかサッカー観戦とかを企画して実行していたのだけど、これがなかなか1年生が来ない。2年生以上にしても特定の人しか来ない。
人が来ないと企画を考える側のやる気も下がるし、元々人が来ないとわかっていながら企画持ち込む人も居ないし、部屋の管理も大変だし、という話だった。
しかし何もしなければ益々存在を忘れられてしまう。いっそ自由開放にしてしまおうか、という話もあった。
(ってかこんな事を部外者の私が書いていいんだろうかと思う。駄目な気がするけども。)
現在の運営体系については全くわからないので管理の大変さについては何も言えないが、何だか完全に悪循環だなぁと思った。危機感が空回って無力感…というか。
でも、人を集めるっていうのは、本当に難しい。
自分の行動を決める。それぞれの決定は何気ないものなのだろうけど、その決定に対して、外からの影響というのは結構非力だと思う。どんなにPRしてもたいていは、本人の「なんとなく」の判断に勝てない。ましてやこちらに全く興味を持っていないゼロの状態の人をその気にさせるのは大変だ。
本当に暇で暇で仕方無いような人だって、必ず来てくれるとは限らない。いや、暇で暇で仕方無いような人は、それだけ面白い事に飢えているだろうから、それだけ、面白いかどうかの判断も一層シビアになるかもしれない。サークルやバイトの予定が入っている人も、当然自分の予定を優先させるだろう。
いずれにせよ未知の領域に足を踏み入れる選択はなかなかしてもらえない。実際私もしにくい。
そういう予定とか、「なんとなく」のフィーリング的な選択に打ち勝たないと、人は来てくれないんだよなぁ。
今まで、友人を誘っての動物園案内企画を何度かやっている経験上私もよくわかる。
面白い事をやっていれば、自然と人は来ると思うのだけど。そう簡単に面白い事はできないようで。
というかそもそも何の為の部屋なのか、何の為のチームなのかが私はよくわかっていない。
ただ楽しもう、っていう場なんだったら、別に楽しむ場は他にもある。楽しむだけならば、映画にしたって何にしたって、都会へ出たほうが楽しめる。
ただの緩いサークル的繋がりの共同体であるなら、閉鎖的にだってなるだろうし、元々何らかのサークルに属しているような人があえてその中に加わってくるとは考えにくい。
何となく、映画好きなら映画好き、ロック好きならロック好き、で固まっているのが今のうちの学年のように思う(自分のカテゴライズすら出来ずにはぐれている私に言われたくないだろうなとも思う)。その「同趣味」の境を、壊して行く場になれば面白いと思う。折角面白い人が揃っている(イメージ)んだから。
何か、人を集めるには、現在分断しているサークル(サークルそのままの意味としても、また友人の内輪のつながりっていう意味としても)をつなげる場になるなら、その前に自分達がサークルになってちゃ駄目だと思う。「自分達」という認識がある時点で駄目なのかもしれない。全部取り込んで「自分達」に入れてしまう勢い、と言おうか?
あの部屋と、図書館のメディアブースで何が違うかって言ったら、人が、しかも知らない人が居るか居ないか、という違いしか、思いつかない。メディアブースは個人か、仲間内でしか利用しない。
でもあの部屋ならば、誰にでも開かれている筈なんだから、自分と違う趣味の人と話したりできる、私はそれが魅力だと思う。この際何を放映するかとか、そういうのも大事かもしれないけれど、居る人っていうのを…もっと有効に使えないかな(…と、何も知らないので好き勝手考えてみる)。
私なんかはまだ映画の古典とかさっぱりわからないから、そういうの詳しい人が一人でも居て、教えてくれるんだったら教えて欲しいと思う。別に正しくなくていい。いろいろな人のお勧めを聞く事に意義があると思う。広げる作業。きっかけ作業。
仮にそうした場になって、それでも違う趣味の人は相手にしない、教えてもわからないだろうから教えないし、興味の無い事なんてどうせ聞いてもわからないから聞きたくない、っていうのなら、それはその考え方が間違っていると思う。閉鎖的で、話の通じる「自分達」だけで閉じこもっていたのでは、やる事だってたかが知れてる。外部とか他者に発信していく気も無いのに、メディアとか。何言ってるのっていう話だと思う。
ただ楽しみたいだけなら、…そりゃ、仲間内の方がやりやすいだろうけど。もっと志は高い筈だ。
何か偉そうに書いたけれど、たまたま私が違う趣味とか違う立場の人と喋る事を面白いと考えるから、こういう考えになっただけなのかもしれない。
でも、面白い事やるしか無いんだと思う。知られていない、っていう状況もあるかもしれないけれど、近付き難かったり、あんなの面白くないよって言われたりするのは、やっぱり今までしていた事に対してそういう現実があるんだと思う。だから皆焦ってた(多分)んだと思う。
結局昼休みの段階ではまとまらなかったからどうなるかわからないけれど、管理放棄っていう事になったら残念だ。
っていう事を延々考えたり。
あと今日は、森達也さんの講演を聞きに行った。
ドキュメンタリーの短編映画を2本見て、あとは話。質疑応答。
何か周囲の人が熱心で、そういう中にあると冷めるという性質がまたも浮上したが、いつもと違う視点の話を聞くのはやっぱり楽しい。
この前メディアが結構大騒ぎしていた北朝鮮のミサイル、実弾は入っていないし着弾したのは公海上だから、国際法上は何ら問題無い実験だったっていうのは、知らなかった。
あと、メディアリテラシーという言葉を久しぶりに聞いた。
つまり視点を変えてみるということだという。
報道は中立だとか、制作者の主観を入れてはいけないとか、そういうのは幻想であり、全てのメディアには制作者の主観が入っている。そしてそれで良いことだ。
悪いのは制作者が、その個人のものに過ぎない一つの視点を一般化して「中立・客観」にしてしまうこと。
そしてその視点によって作られた作品を、視聴者が「中立・普遍的なもの」として受け取ってしまうこと。
気持ちのゆとりが無く、漠然とした不安の中、「わかりやすい」ものを求め、「敵」を作りたがる。
そういう心理があるという怖さ、そしてそれを「中立」の形で助長するメディアの怖さ。
これは、「正常で善良な我々」と「異常で凶悪な彼ら」を完全に分けたがる昨今の傾向(きっかけはオウム事件なんだそうだ)ともつながる。
安心させる事を言うと数字(部数・視聴率)が下がり、危機感を煽ると上がるという例もあがった。
安心しているのが不安…不安を作って、その不安の原因たる「敵」を常に設定していないと、相対的に「正義」である「我々」という図式が崩れてしまうという不安。屈折しているけれど、そういうものらしい。
そしてそういう不安を煽る力を、メディアは充分に持っている。
でも一番思ったのは、そうやって、「メディア駄目だねぇー、騙される人駄目だねぇー」と思っている私もまた、「知っている私」と「知らない誰か」を分けている、ということ。
知っているだけで、ふふん私は騙されてないよ、とある意味での優越感?に浸れる。おかしい方向へ流れてるのは、私の所為じゃない、少なくとも私はその流れに乗ってはいない、って。でも実際は何も出来ていないわけだ。自分は知ってるぜ、ってだけで満足して、少数者である事もちょっと誇って。
悪いのは他の人、私は悪くない。っていう、結局自分も単純な二項対立に陥っている。それバカだねーと思う。
知っている、知ってしまったっていうことの重みというものを思う。
知った事を自己満足のうちに留めてしまうことの愚かさを思う。
知った事を鵜呑みにせず、常に、吟味していくことの大切さを思う。
知ってるのに、知らない人と何ら変わりないような行動をしておいて、「本当はわかってたんだ」っていう自己弁護をする、それが一番駄目だ。知らないよりずっと駄目だ。
今日も長々と。
あ、明日からメンテナンスか何かでブログ2日間書けなくなるみたいなので、しばしさようなら。
読んだ本:中島らも 『ガダラの豚 1』
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