2013年5月12日 (日)

どこにいたって どこにいーたーって

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(こめは立派)

自分の中身を他人の外見と比べちゃいけないんだって

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2008年9月30日 (火)

二十歳の夏休みのまとめ

老後さながらの隠居生活の中、
図書館と動物園と野毛の店があれば
私は楽しく生きていけるなと思いました。

それでも
楽しいだけでは足りないわけで、
動きたい気持ちは抑えられません。
動けないので考えていました。


知りたいのは、人間が動物を思うという、どう頑張っても一方通行な思い入れが、
消費社会の枠に吸収されることなく
何がしかのポジティブな効果を生み出すにはどうすればいいのかということです。

どんな努力も、突き詰めれば結局人間という種の存続のためのものに過ぎないと断言した上で、
それでも尚、人間が存続するためには
その周りに動物がいなければならないと私は考えたいです。

有益なものも有害なものも、あるがままの状態でそこに居続けて欲しいと思います。

身の回りに動物がいない(と思われている)今、
殆どの場合人間は、他の人間を通して動物を見ています。
動物写真家なり、テレビのカメラマンなり、
そういう意味では見世物である動物園もそうだと思います。
人はもはや「まっさらな」状態で動物と向かい合うことは不可能で、人為的に作られた動物のイメージしか受け取れないのだとすれば、
そのイメージを作る人間の重要性がいよいよ高まってくるはずです。

既に身近からは大部分が姿を消しています。
都市においてはもはや人間に所属した、人間の見たい姿の動物しか見ることができないのなら、
物語や芸術作品の中で描かれる動物のイメージにしか、
可能性は無いのではないかと思いました。

出来ることなら直接救いたいし、報われたという実感も欲しいです。
でも私に出来ることは多分それじゃない。
ペットや家畜の世話をしていれば多分楽しく生きていけるでしょう。
だけどそういうことでもなくて。
私が相手にしたいのは人間です。人間の中にある、動物に対する敬愛の念です。
それを引き出して、どうにかしたいです。
どうにかできませんか。


休み中に考えていたことの経過はこんなところです。

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2008年7月 3日 (木)

愛/愛着

バルトさんの仰ることに
いちいちうろたえていた大学入りたての頃に比べたら、
結構たくましくなったよなあと思うのです。
ただ免疫が付いただけかもしれませんが。

愛着じゃだめだ、愛じゃなきゃだめだ、と言われても、
たじろがず、身に覚えがあることをとっかかりにして考え始め、考えた結果を、また実践につなげる、という環の中にとりあえず入れてみようと、思うのです。
じゃあ愛着と愛の違いは何か、と考えることには、

「愛着のディスクール」というのが、好きである何か(ここでは音楽)について語る際に、
その根拠を音楽の側でなく自らの情緒や感性やら趣味に求めた結果、自分語りに陥ってしまうというもの(と理解したの)です。
音楽を語る時に用いる形容詞一つをとっても、その形容詞を選択するのは「私」であり、
語る行為が必然的に「私の印象」でもって音楽そのものを閉じ込めることに他ならなくなる。
自分にくくりつける(attach)ことになる(愛着=attachment)。

でもそうするしかないじゃないか、ということではなくて、
自分の感性などという安いもので閉じ込めるのが許されるほど、小さいものではない相手というものにぶつかった時にどうすのかい?ということではないか。
そういう相手をいつもの調子で手なずけて飼い慣らそうとすると、無理が生じるわけです。
その無理を、語りの対象を自分自身に持っていくことでごまかすと、他者には伝わらないし説得力も無いし、多分求心力も無いでしょう。

丸腰で、ポテンシャルだけで挑むのは大きな失礼になる相手もいるということ。本読んで腕磨いてついでに顔も洗って出直して来い、っていうことになる。
そこで逆ギレしたり意気消沈して諦めちゃったりしたらそこでおしまい。
相手に言葉が、ひいては自分自身が追いつこうともがくことが、愛であり、
そういった愛の成れの果てに編み出されるのが「愛のディスクール」なのではないかと。
結局言葉は自分で選ぶしかないから、結果は一緒に見えるかもしれないけれど、全然違うものだと思います。
ポエジーですけれども、そういうものもあってほしいと思います。

そういうことを考えたのも、
この前の動物園が消える日の稽古中であり、
自分の経験なんてものからこじつけちゃうのも、また一つの愛着でしかないのですが。

前だったら、じゃあいったいどうすればいいんだ!ぐわあー!となっていたところですが、
作者なんて死んでたって、
愛着でしかモノを語れずに愛に届かなくたって、
それでもやめるわけにはいかないんだよ、と踏み留まることができるようになりました。
それは決して、言うことを聞かないとか、反論とか開き直りじゃなく。
むしろ、理解した上で語るのをやめてしまう方が、ただの誤解より罪深い誤解なのかもしれません。

正しいことを、消極的である言い訳に使うのは間違っていると、確信をもって思うのです。
生きているのは私だし、ひっかかるのは私だし。
先達の言葉を噛み締めながらも、書くこと語ることを続けます。


時代(その場の状況なりシーンなり)の主流に対する親和性の高いものが生存する。
順応できないもの、順応することをよしとしないものが、顧みられなくなったり流されたりすることがある。
そういうものの価値を、後者に代わって(または補って)、みんな(誤解が生じていると己が感じる対象)に伝えるという仕事。
順応できない生物は絶滅から逃れられない。にもかかわらず残したいと思うんだったら、力入れてやらないと残らない。大変な仕事だ。
そこに意味はあるのかとかそんなん知らないけれど、私が勝手に残したいと思ってるんだから、私が頑張らなきゃいけない。
たぶん愛の深さが問われています。

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2008年6月27日 (金)

献身的

生体リズムを一から組み直そうと思っているのですが
…てんで駄目だ。
2日無睡と20時間睡眠のくりかえし
くりかえし
死の木曜日
染み付いちゃったかしら?
朝寝て目を覚ますと夜
腰が痛いのと体が冷たいの二大持病も作用して
ああっもう!!

一人で本を読んでいる分には良い
でもこれじゃあ普通の人々と一緒に暮らしていくことが
できない!
生物的機能を狂わせて集団的動物としての欲求を打ち消してまで
貢献したいのかね、
ただ単に重宝されてるだけであって感謝されてるわけじゃなし
活動時間の行動だってマニュアルづくめだし
マニュアル以上の努力は無駄と見なされますし体力削られるだけ。
深夜のお客様なんて、大方は酔っ払いか眠そうな人か疲弊しきった人だ。笑顔で元気に心を込めて応対したところで、反応は薄い。
皿を下げるときにごちそうさまって言われるだけで感激する始末で、それってどうなんですか。
努力してる己は正直ばかばかしいですが努力しないと手抜きに思えてしまうクソマジメ性分なので努力する。報われないのはわかりきってても努力しかできない。そしてへろへろになる。
寝たら死ぬから寝ないで出席取られるためにぼんやり大学行って
ここでも授業中寝るのが許せないので寝ない。
友達に会っても元気で正常な対応が出来ず。
行った日はまだましで
行けない日は罪悪感と後ろめたさにうなりながら終日ベッドの中。夜起きだしてまたバイト。

私が悪いんですよ。
たかがバイトの分際でやりがいやら責任感やら己に求めちゃって
適当に手抜きできなかったり
増えるシフト突っぱねられなかったり
「店の事情」に気ぃ遣って辞められなかったりで
要領よく立ち回れない私が悪いんですよ。正直言って店もそこまでは求めてないですよ。そこそこクレーム来ない程度にシフト埋めてくれればいいんですよ、多分。
むしろ勝手に頑張って自滅されちゃって迷惑〜とか思ってるんじゃないですかね。自業自得なんすよ。
そう、自業自得なのに、店の外の人にまで迷惑かけちゃって、最悪ですよ。
それは授業も然り。

本当に大事にしたいものをみすみす失っていく過程を、お見送りしている。
もう、楽しく生きるとか、やりたいことをやるとか、勉強とかより、
便利に使われる方が、社会のためなのかなぁとか、ぼんやり思ったりも、する。
いやだ。そんなのは、いやだ。
何かのためとか、本当にいやだ。献身的でなんになる?
辞めよう。逃げよう。自業自得なんだけど。私が悪いんだけど。

あああ
動物園のやってる時間に起きて
上野に行きたいなあ。
…しばらく、行ってない。

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2008年5月 1日 (木)

その死から一日経って

あの子が死に、
私は生き延びています。
流石にこたえます。

とにかく、さみしい。

色々思うところもあります。
あの場所にあの子が生きているということが、どれだけ私にとって心強かったか。
しかしあの子本当によく頑張った。
メキシコ出張とかね…あの時私は受験だったね…
思い出は尽きません。
お疲れ様!ご苦労様!今までお世話になりました。

だから私も本当によく頑張れ。
生きてるんだから頑張れ。よく考えろ。

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2008年4月22日 (火)

生きものに対する思いの丈

生きものが好きだ好きだと散々言ってきましたが、
好きなだけでは飽き足らず、
報いたいと願うようになってしまったのが悪夢の始まりです。
悪夢…ええ、悪夢。
しかもその「報い」の形が、
環境保護運動への参加とか動物保護団体に所属とかいう現実的なものでなく、

どうしても
ドリトル先生と彼をとりまく動物達との関係とか、
エルマーとりゅうの関係とか、
どこかでそういうものを理想としているところが否定できなくて困りものです。
理想というか、ただの憧れに過ぎないのではないかという。
どう考えても現実離れしています。架空だし。

気持ちとか愛情とか熱意とか、通じればいいですけどね。ほんとうに。
ただ、それに期待し始めてしまうと、おかしなことになるのは間違いありません。
ペットと私、という狭い関係ならまだしも、
もっと大きな次元で人間と動物の関係性を語るには、
両者の間の絆の存在、は一つの幸福なファンタジーとして胸にしまって、
現実的に、戦略的に有効な手段を探っていかなければならない。
生きものは生きるのが大好きという、唯一頼りにして良いであろうその原則をもって…

道徳的、倫理的、善意から来る保護活動というのは、
確かに立派だと思うけどどこか信用できない、
そこには切実さがない。欲望がない。
では、何をもって報いるとするか…
何をすれば「あぁ、報いてるなぁ」と思えるのか。
先生とかエルマーとかと違って、私は生き物の気持ちがわからない以上、
結局向かうところは自己満足でしかないのが真実なようです。

しかも、現状を鑑みれば、よほどおめでたい人物にならない限りは自己満足すらさせてもらないでしょう。
「自分が何をしても破壊は止まらない。ただ、やらないよりはマシ」
そういう締念の混じった自負を、活動家の方は持っているようです。
そんな人達を前にして、もっと楽観的になりましょうよ!とはとても言えなかった。

…そして私に何ができるのか。
保護と呼ぶより、
あいつらがいなくなるのは嫌だから、そこに居続けて欲しいという、これもまた一つの身勝手な欲望として捉えた方がしっくり来るような気がします。
私にとって動物を見るということは、音楽を聞くとか映画を見るとかいうことと全く同類項に入ることだから。
その世界は豊かであってほしい。マイナーだからって絶滅してほしくない。


その一方で、同じ生きものとして、
一つの生命体として到達できる高みに、私も辿り着きたいと思うのです。
地球上に暮らす生きものは皆仲間、ってよく言われてましたけど、
仲間どころの話じゃなくて…私にとってはライバルというか。
一応、現時点ではヒトが一番高等な生きものとされていますが、
他種の生きものの姿を見ていて、
すげえ!!と思うと、負けたくねえ!!という思いがどうしても付いてきます。
そりゃ、同一の土俵じゃ敵いませんから(敵いたいが)、
力が云々とか走りが云々とか、飛べる飛べないとかいう話じゃなくて、
ヒトという種として、人間の使える機能を全て注いでふりしぼって、何か、やれないかと。

私が芸術に対して思うのはそういうふうなことです。
こと、芝居に対しては一層強く思います。
近頃はいよいよ強まっています。
スポーツもある種限界への挑戦ではあるけれど、突き詰めれば芸術の方がもっと多くの側面でもって生命力が試されそうです。
ヒトとして凄いなぁという人は結構居るけれど、生きものとして凄いなぁという人はなかなかいません。
(例えば唐さんは生きものとして凄いと思います。)


社会の一構成員、市民としての人間という面では、
今も誰にも知られることなく、人間の活動から深刻なダメージを受け続けている他種の生きものに報いたいし
一つの生命体、生きものとしての人間という面では、
それとして到達できる一番の高みまでこの体と精神を連れていきたいと思うし

私の夢であるその両面を、
南方熊楠という人間は本当に実現したと思います。
本当に、心して勉強しようと思っています。

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2008年4月 5日 (土)

キープオン、誰ですか

何かショックな事があったとして、
それに対し喜んだり悲しんだり怒ったり、何かを決心したりして、
その強度がどんなに鋭いものであっても、
全ては、
何があっても続いていく日常というものに薄められて、
そのまま時間ごと次へと進んでゆきます、埋もれて風化してゆきます。
それが人間の営みらしいです。
放っておけば自然とそうなる模様です。
ご多聞に漏れず、時に激しさを見せたとしても、結局私にとって日常は、ゆるやかでまろやかな代物です。平和なことに。
そんな状況下において、切実さの持続は難しいものです。
それ自体は悪いことではないでしょう。
それにしてもいつまで平和なつもりでいるのでしょうか。全くおめでたいことです。
とうに追い込まれているのです。足りないのは努力です。

チュンチュンは雀です。
ホーホケキョは鶯です。
ツツピーツツピーは四十雀です。

ミクロコスモスは動物界に分類されるという噂です。
お互い生き物として存在し始めた以上は、
時を経て古くなって、風化されていくだけで終わりたくないものです。
逆らったりもがいたり飛び跳ねたりしたいものです。
その切実な動作により、
ゆるやかな怠惰さで満ちているこの周辺の空気中に向けて、ある種の異様さや、なにがしかの説得力を孕んだものを放てたならば、人間として生きた甲斐があると思います。
他種他属の生き物達にも示しがつくと思います。

『あなたにとって「わたしたち」というのは、誰ですか。』
(長田弘『深呼吸の必要』より)

新年度が始まり、思うのはこういうことがらです。

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2008年2月27日 (水)

動物園は消えたのかどうか

今ならばやっと振り返れます。
舞台芸術論B発表公演のことを。
今の今になるまで何故振り返れなかったかというのは、それは、私にもいろいろと事情、ありまして。

役が決まってから間もない頃、
この公演は私にとって大事なものになるでしょうと私はどっかに書いていました。
唐ゼミ以外で芝居をするのは初めてでしたし、
学生の集団でがっつりと活動をするのも初めてでしたし、
その上、演目:動物園が消える日と来たもんだ。
くどいようですが、私は動物園が好きです。好きという言葉では表しきれない複雑な感情もひっくるめて、その昔から私は動物園が好きです。

色々なことをとことん考えさせられました。
色々。
まずは動物園について。
人間と動物のコトバの窓口。アニマルの長屋。
唐さんの言葉で語られる動物園像の数々には、読む度読む度それはもう感心しっぱなしでした。
この戯曲に出会えたこと、公演できたことを一個人としてとても嬉しく思います。

そして芝居について。
今迄いかに自分が周りの諸先輩方に頼りきりで、演じるという行為について受け身で無自覚的だったかを思い知り、以降はそこからの脱却のための戦いでした。
大学の劇団に所属している人や、芝居をするのは初めての人と練習したこともとても勉強になりました。芝居に対する姿勢とか、何をもって台本に向き合うかとか、実際話してみて、それぞれ違うんだなぁと。当たり前の話ではあるけれど、こんなにも違うのかと。

それにしても的確な演出の力は凄いです。
演出指導にしても、自己演出にしても。そう動くことで、そう喋ることで、みるみるうちに台本上の言葉が豊かに、いきいきと浮かび上がってくる。
読み解き、そして表現すること。それがちゃんとしていると説得力が生まれるのだなぁと。
身をもって教えて下さった久保井さんには本当に感謝しています。

あとは、やはりチームについて。
これが一番反省というか、全てにつながる話ではあるのですが。
あくまで授業なのにということ(労力が割に合わないとか)、テストやレポート、アルバイトといった学生としてのあれこれを優先させたいということ、その言い分は多分正しいしある程度は仕方の無いことなのですが、
最終的にはみんな授業とか単位とかそんなことはまるで忘れて、一つの公演として本当にすごく頑張ったと思う、だからこそもう少し早い段階で全員の意識がそこに向かっていればと。もっと練り上げられたんじゃないか、もっと自分達の力できちんとできたんじゃないか、と悔やまれることは多かったです。
私も私で、色々気負った挙げ句空回って消耗して自分の稽古時間を減らしてしまったり。
実際、様々な外部の人達の相当な力添えが無ければ実現しなかった本番でした。

進め方に対する物足りなさや違和感はあったけれども、
それでもひたすらストイックなだけでは人は付いてこないし、
みんなの達成感含めて今みたいな授業としての成功も無かったでしょう。「楽しむ」ことも大事なことの一つではあるし。
何をもって正解とするかは誰の立場に立つかで変わってくるから、難しいところです。

でも本番楽しかったなぁ。舞台上も舞台裏も。
終わった時は「終わったー」と思ったなぁ。
舞台上のみんな大好きでした。
昼の回にはもう本当に沢山の友人知人先輩母叔母恩師の方々に足を運んで頂き、ありがたかったです。

後悔先に立たずとは言いますが、
反省点はいくら悩んだところで解決なぞしません。
次に活かして改めることで初めて解決するのです。
さっき日記にでかでかと、反省、終わりと記しました。
だからもう反省は終わりです。
長い長い反省期間はこれで終わりです。

反省ばかりして忘れかけていましたが、この公演で自分が得たものはやはりとてつもなく大きかったのですよ。
ああじゃないこうじゃない悩んだことも含めて。
うまくいかなかったことも含めて。
泣いてばっかりいたことも含めて。
いい経験でした。
この全てを、唐ゼミ次回公演に、来年度の舞台芸術論に、注ぎ込みます。私のこれからの生活にも。
そうすることで、動物園は消えなかったということになりませんかね。
只の思い出にして終わらせてしまっては、情けないですから。

最後に、見に来て下さった皆様、
モギリ隊はじめ最後まで付き合ってくれたメンバーの皆さん、
ずっと支えてくれた唐ゼミの皆々様、
そして久保井さん。

本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

あと忘れちゃいけないサム。大好きです。

長々と書き連ねましたが、これでやっと、一区切りです。
さぁ、次だ。

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2007年11月18日 (日)

そっちの水は甘いかい

生きてりゃいいことありますよね。
いいことあったらいいのにな。
どっかにないかなー。いいこと。
そんなこんなでおはようございます。
昨日の朝からの劇団片付け(2日目)後に直通で入った深夜バイトが微妙に早く終わりました。
午前5時45分をお伝え致します。
激しかった2日間のフィナーレを華麗に締めくくりました。
ファイト一発飲み干して、力、振り絞りました。
頑張ったな。うん。よく頑張ったよ。
しかし私ゃあ一体全体何を頑張ってるのか本当にわからない。
それにしてもなんで今私はアイスクリームなんか食べ始めちゃったのかしら。
寒いっ!!
とりあえず生きてます。元気です。
生きてりゃいいことありますよね。

…。
話は突如変わりますが。
長々と続きますが。

一昨日スーパーマーケットへ行った際に駐輪場に自転車を止めて、
買い物終わってさぁ帰ろかとスタンド倒したところ、
勢い余って隣りで同じく帰ろうとしていた女性の自転車まで倒してしまったのです。
問題はその時の己の対応です。
うわっやっちまった!と思うよりも早く、
反射的に口を突いて出た一言が、

「申し訳ございませんっ!!」。

…なんか、一気に萎えました。
相手にも怪訝そうな顔で見られたし、何より私自身が呆然としました。悲しみに暮れました。
そこまで染み付いちゃってたのか接客用語。
気持ちや反応よりも早く、言葉が出るか。
自分が全く信用ならん存在になってしまったようで恐れおののきました。

深夜は疲れるとか、シフトがおかしくなってきたとか、
そういうのはもう、もしバイトを辞めることになった時に挙げられるであろう離職の原因として頭の中で常に存在するのですが、
でも結局そういう理由では辞めないんですよね。決定打にはならないんです。
しかしあのスーパーで味わった何ともしょっぱい気持ちというのは、精神というものにダイレクトにアタックしてきます。実際大いに揺らぎました。

ああ、こういうのを、契機って言うんだろうなぁと思いました。
原因と契機は違うんだよっていうことは、よく言われはしますが、初めて身をもって知りました。
そして実際に起こした行動(例えば何かを辞めるとか)の理由っていうのは、原因じゃなくて契機の方がリアルなんだっていうのも、わかりました。
原因もそりゃあ、確かに当てはまるのだろうけれども、行動を起こすに至った本当の動機づけは他にある何かであって、そいつが、他でもない決定打であると。
ほんの些細なことが、きっかけになってしまうんだなぁと、学びました。
それが一つ。

でもそうやって揺らいでも、もしこの仕事に生活が、しかも他の誰かの生活がかかっていたならば、それでも人は耐えて続けてゆくのだろう、とも思いました。
違和感を受けた時点ですぐに方向転換できるっていうことは、自由っていうことは、今の自分にとって望ましい状態ではあるが、人様から見たらそれは、青いとか甘えてるとか無責任とかいうことと紙一重なのだろうと。
ほんと、大人っていうのは、守るべき生活っていうのは、職業っていうのは、一体何なんだろうなぁ。
生きるために働くのか、働くために生きるのか、って陳腐すぎる問いだけど、むずかしいことです。

でも生きてりゃいいことありますよね。
本当、あってくれなきゃ困るんです。

妙テンションついでに書き散らしてよくわからない文になってしまいましたが、
学生と劇団員とアルバイターとをやっていると、本当にこれについては、考え込んでしまいます。
生業について。

…まあいいや。先のことは先で考えるんだ。今は体全体が睡眠を欲している。
寝よう。

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2007年6月 8日 (金)

本気かい

やること総てに本気出すって無理なんですか。
体力に限界はあるんですか。
限られた力の向けどころを選んでいかねばならぬのですか。
一晩寝ないくらいで翌日のパフォーマンスが落ちるような身体は不便です。
やりたいことだけをやっていればいいのに。
やりたいことが多すぎて、本当にやりたいことがおろそかになるのは嫌だ。
しかしすべきことはきちんとこなしていく必要性はあるみたいだよ。
単位はきちんと取っていく必要性があるみたいだよ。
そこに疑問符を発生させると色々と厄介みたいだよ。
やりたいこととすべきことが乖離してくると辛いみたいよ。

あーなんかもう私の本気って何だ。それはどの程度の覚悟なんだ。

なんてことを考えながら授業の予習が続く。
何やってんだろな。
いや、無駄にはならないはずだ。無駄なことなど何一つないはずだ。
と信じたいです。それを身をもって実証したいです。

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