« 2016年2月 | トップページ

2017年11月18日 (土)

20171117

その後の状況をわかりやすく説明することが困難なのは、

いくつかの分岐点にさしかかる度に私自身が分裂して、
並行する別の人格間を乗り移りながら過ごしてきたような気がするからです。

そしてその拙い処世術に行き詰まり、私はこれまでに分裂し切り離してきたすべての私を回収する必要に迫られました。

そういう言い方で本当に合っているか、確認することはできないのですが。

とにかくこうしてブログに帰ってきたことは事実で、確かなことです。

自分で自分の気持ちがわからない、
自分の望みがわからない、
という感覚は私にとって慣れ親しんできたものです。

もういいや、それでいいや、私が私でいる必要なんてそもそもないや、
という気持ちにもなりましたし、
私は生きているべきではない、という確信だけ抱いてただ横たわっている期間もそれなりにありました。

結局どうして私がその真空状態から脱し、息を吹き返したのか、よく覚えていません。

今の言葉の力で示せるようなわかりやすく劇的な体験があったわけでもなく、

私を取り巻くさまざまなもの、
私の中にあったさまざまな力、

そういったものが、力尽きて沈黙するしかなかった私の中にただよって降りてきて、少しずつ堆積していっただけなのかもしれません。その一つ一つを知覚し自覚する力は、当時の私にはありませんでした。


でも帰ってきました。


帰ってきたといっても、ブログのIDもパスワードも忘れて、当時登録していたアドレスを使える、今で言うところのガラパゴスケータイから打っているので
正確には、元いた家の外壁にもたれて日記を書いているようなものです。

克服とか、達成とか、そういう明確な切り替え点は、自分で自分に下すしかない性質のものですが、
その見極めに強がりや願望が入っていないとは言い切れません。


でも、自分の変化を観察することはできます。
観察して記録することでしか、元気になった自覚を持つことはできないのかもしれません。

元気ですという言葉を口にする際に、(前よりは)元気です、という気持ちが今はあります。

過去のいつと比較することなく元気ですと言えるようになるのも良いし、

あるいは、元気でなんかなくてもよかったのだと笑えるようになるのも良いです。

本が読めた、映画を観られた、芝居に行けた、友人と話せた、
そのとき生じたものの形に、言葉を蔦のよう這わせていく、
そういう練習が必要だと感じました。

過去を振っ切るためではなく、現在の喜びをたしかに自分のものと思えるようになるために。


わたしに劣等感が植え付けられたのが6歳以前だったことは確実です。

ずっといじけてきた、それを隠すために取り繕ってきたことも認めざるを得ません。

しかし、我が身に降りかかった不運がどんなものであれ、

私の魂は少しも傷付いていないと私は信じたい。

その証拠に、魂の根幹が震えるような自分だけの体験というものが、私には起こってきました。

そんなものに価値はない、調子に乗るな、という心の声に掻き消されたこともありましたが、

でもその感覚は、かつてと変わらぬ、いやそれ以上の熱を孕んで蘇りました。


特定の経穴を鍼で刺激した際に生じる独特の感覚は、
そこが過去から受けてきた負荷の蓄積が、鍼に触れ解放されることで発生するものだと言います。

そんなささやかな情報さえ、今の私には滋養と共に深く染み入ります。


なにかを新しく学ぶということは、世界を信じる気持ちがなければ成立しないのではないか、と最近ふと思うことがありました。

私は勉強して、鍼灸師になります。


自分が見てしまったもの、
自分がそこに存在していたこと、
を、なかったことにしたくなかった、

だから帰ってきました。


洗練や新鮮さとは遠い言葉を垂れ流すことになってしまうとしてもそれは解毒と考え、

きちんと書けるようになるまで、やってみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年2月 | トップページ