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2013年8月 9日 (金)

涼風至

会社というしくみの中に身を置くようになってから早くも2ヶ月が経とうとしており、
イッチョマエに不安なことや問題や疑念なんかが漂いはじめています。

でもそれを補って余りある発見が多々起こる毎日でして
わたしが今こうして翻訳という営みに携わっていることを深く納得しているので
それを頼りに、いろいろ挑みたいところです。

せっかく掴んだ偶然ですから、
文句ばかり言って、文句の精度ばっかり上げても意味がないしもうそういうことはしないんだ


ところで携帯を買い替えたのですが
ボタンが前のに比べて少しかたく、押しづらくて弱っています。
そんな少しのことで生じるささいなストレスが、
一押しずつ入力しながら考えていく文章自体に与える影響はいかほどかというのを思うと

それはちょうど、外国語という慣れない入出力にひいひい言ってる今の状況に重なる気がします。

負荷、抵抗、そういうものを経なければ生めない、存在させられないのが言葉であって

その原形にあたるのはおそらく気持ちというやつなのですが、
ああ、気持ちを気持ちとして感じ、それを言葉にするときの心もとなさよ。
そんな覚えも重なってきて、それらの根っこはたぶん同じものです。

エトセトラエトセトラ。

何が言いたいのかわかりませんが、何が言いたいのかわからなくても、こうして何が言いたいのかわからないっていう形をあつらえることはできて
形って大切だなあ怖いものだなあ

形の力を借りなきゃ何ひとつ言えないのに、形のことが疑わしい、そんな心細さのときみんなはどうしてるんだろうな

そんな、言葉の原形についてなにか思っていたら外でネコがにゃおにゃお鳴いていて、
そういうことですねとまた勝手に納得しました。

にゃおにゃおから意味を読み出すことは無理で、
その声の震えとか大きさとか声音を感じるしかなくて
しかし文字にできるのは、耳から入って頭を経て指先が打ち込むのは結局にゃおにゃおで

あと、英語にできない、英語にない日本語というものの処遇…つまり運命を
言葉にできない、言葉にない気持ちの行方と重ねてつい熱くなったり

一方、秘め事というものの深淵について思いを馳せたり

はたまた別の場所にて、ヘブライ語で、出来事 と 言葉 は同じ一語であらわすのだと聞いたり


しています。
そんなこととはあんまり関係なく日々の業務は続いております。

こうして気持ちのまま指に任せて文章を作るのは、楽しいです。安心します。

負荷と抵抗のスイッチを切ってみたら、はたまた別のものに換えてみたらどうなるのかな、っていうのは音楽めいてもいますね。

そういう、ほとんど雑音なのを承知で音を拾うための、ブログにしちゃおう。

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コメント

>気持ちを気持ちとして感じ、それを言葉にする ときの心もとなさよ。
>形って大切だなあ怖いものだなあ

若いときに読んだアランの文学論(和訳)で「ゆえに文学とは礼儀の総体である。」が末尾となったものを思い出しました。礼儀、つまり言葉も含めて相手(生死を問わず)と自分とのあいだにたちあげるかたちが「礼儀」だとすれば、それは、時間の清算、気持ちの清算、共有その他の方途のために、人間がなけなしの知恵をつくして獲得した、新しく獲得しようとし続けているものなのだなあ……。
その片方で、言葉に出してはいけないもの、形になるのを避けねばならないこともたしかにあって、そんなあいだから出てくることば(声)をこそ耳と目は待っている、なんちゃって。

学科としての外国語はさぼりぬいたけれど、同じ日本語でも、通じることはわれひとともにかくも困難か、と、大昔思ったことのある読者より。

投稿: 読者 | 2013年8月16日 (金) 20時30分

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