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2008年7月30日 (水)

とかげ

とかげ
爬虫類の黒目の静けさに心惹かれてやまぬ私ですが、
ことにトカゲのビーズ玉のような瞳には遭遇する度に、
息を殺してじっと見入ってしまいます。

テストは終わったんですけど
何だろうこの気の重さといったら。

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2008年7月27日 (日)

朝顔日記・1

朝顔日記・1
昨日の朝の朝顔。
褒め讃えながら写真を撮りました。

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2008年7月24日 (木)

朝顔市@入谷

もうだいぶ経ってしまいましたが、
先週末、いわゆる下谷万年町の辺りでは朝顔市が執り行われていたのです。

前日に、みんなが木を持って外を歩いている世界を夢想(妄想)していた私が
翌日の北上野で、朝顔をぶら下げて町を歩く
人々を目撃するという、
それは何ともグッドタイミングなことでした。
吸い寄せられるように歩いて行くと、
おそれ入谷の鬼子母神前で盛大なお祭りが。

ずらり並べられた朝顔を横目に、
この偶然に感謝して買って帰ろうかな、
いや、連れて帰って枯らしてしまったら可哀相だから、
と悶々としながら歩いていると、
どうにも黒目の澄み切った売り子のおじさんに声をかけられました。
胸中を説明すると、

「枯れたら枯れたでいいんだよ、
それが花の人生だったんだから。
大事なのは育てるということ」

文面にするとただの売り文句なんですが、
突き詰めるとその立場は全肯定されるべきではないのかもしれませんが、
その言い方が余りに温かかったものだから、
おじさんの言葉に真理を感じ取り、涙ぐむほど心を動かされてしまったその時の私は
朝顔を育てようと決意したのでした。
あれほどまでに、
誰かの言葉が自分の中で瞬時に染み渡ったのは久しぶりだったのです。

おじさんに選んでもらった一鉢を受け取り、
世話の仕方を一通り説明を受けて、肥料を頂いて、
二言三言会話して、
別れ際
「お幸せに」
と声を掛けられました。
またも涙ぐみ、
託された朝顔の鉢をしっかり抱えて花火鳴り響く横浜に帰りました。

そして新しい生活が始まりました。
この夏の相棒ができました。
枯らしません。
おじさんの言ったこと守って世話します。
がんばります。

やるのは米のとぎ汁がいいそうですから、
毎朝米をといでは汁をあげています。
朝顔のために米をといでいると言っても過言ではない。
過保護かしら。

毎日新しい花が次々とぽっこぽこ咲きます。
ほんの一日でツルがひょいひょい伸びます。
すごい。
その成長ぶりを褒めたたえながら、
開いた花を愛でながらしぼんだ前日の花を摘み取り、
その先端の産毛をいとおしみつつ、行き場の無いツルを半時計の向きに支柱に絡ませる。
奴のすさまじい生命力を健全に続行させるための補助作業。
とぎ汁をやり、そして私は炊いた米を食す。

そんな営みがこの夏、毎日続くのだ!

連れて帰ってきて本当に良かったなぁと思っています。

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2008年7月22日 (火)

呪われし左足の件

先日某先輩宅で熱湯を浴びた我が左足、
その火傷の模様が、凝視すればうっすらと認められる程度にまで回復したと思った
そんな矢先に、
そのほぼ真下のゾーンを
とあるカドに物凄い勢いで打ち付け、
割と広範囲に渡ってアザと内出血を併発、
現在、黄緑色をベースに紫色の斑点という
およそ人体の皮膚とは思えない様相を見せています。
ああ、哀れな左足。

先月某日、某ファミレスに出勤していた私が、
その数分前に殺人事件を起こした人に
水や料理を提供していた可能性が高いという話を
先ほど聞きました。
最近その人が捕まって判明したらしいのですが。

その日の日記を見てみたところ、
ゼミ発表の準備で疲弊しきっていた模様でした。

なんというか、
なんというか、
…。
こわいですねえ。


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2008年7月20日 (日)

エアプランツを日傘として使える日は来るか の件

毎年夏がやって来ると、
クーラーにめっぽう弱く、
かといって暑さに強いわけでは断じて無いこの私が心安らげる場所はただ一つ、
風通しの良い木陰だけである

と毎年、毎年、思うのです。

思ったついでに、去年あたりに、
日傘のように、一人一本マイ樹木を持ち歩くことで、
自分の分の木陰を携帯できるようになれば良いではないか
二酸化炭素も吸収してくれて一石二鳥じゃないか、
ということを、暑さにやられてしまった頭で夢想したのです。

おっと日傘じゃだめなんです。
日傘なんておしゃれなものは、自意識が邪魔をして私は持ち歩けないのです。
ダサい長靴は平気なのに、日傘は恥ずかしくて持てないとはこれどういうことか。

話が逸れました。
自意識云々だけの問題じゃなくて。
日傘のように、木を持ち歩けたら素敵じゃないかと。
それも、切った木じゃなくて、生きてる木で。
去年は、思いついて以降ひとしきり一人で盛り上がった後、
涼しくなって来ると同時に、次第に飽きてそれから考えを進めるのをやめたのですが。

つまりその、いつもの木陰を持ち歩く方法についての話題が、
今年も脳内を占拠しだしたのです、
昨日、陽光燦々と降り注ぐ真っ昼間の中華街を、歩いていた所、
その考えがちょっとグレードアップしまして、
その携帯式樹木、エアプランツなら実現の可能性が上がりはしないか?
という思いに至りました。

エアプランツってやっぱりあの、ちまっとしたサイズしか存在し得ないんですかね?
どうにかして、もっと大きくならないかなぁと。
バイオテクノロジーか何かで。
あれほど常日頃から疑っているバイオテクノロジーを使おうなどと考えるのは、
ちょっとあれですけれど。

ペット連れて歩くみたいに、木を持って歩いている人がいたらいいなぁと思うんです。
ただ、持ち歩けるサイズの木で、快適な木陰が作れるとは到底思えないのが問題ですが。
あと、外来種だからやっぱり慎重にならないといけないのですが。

まぁ、それについては
また来年になればグレードアップしたアイデアが出て来るかもしれません。

実現できそうになった時点で、私、試しにやってみようと思っています。


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2008年7月18日 (金)

書き殴る

生物多様性をめぐる諸問題に思いを馳せ、
都合良すぎるエコと、終わりそうにない消費社会について
考えに考え、いよいよ思い詰めて、

人間はもう終しまいだ!と口走ったそばから、
人間捨てたもんじゃないなぁと思いたがっているんです。
それはもう、本当にそうなんです。
そう思わせれてくれる誰かを捜しているし、
自分こそがそうありたいと願っているのです。

とりあえず私がこの部屋で吐いた二酸化炭素は、
うちの前の薮に生い茂る雑草がすいとってくれます。
だから息をしても大丈夫だなあと思います。
ありがたいことです。

レポートを書き殴り、
そこで収まりきらなかったものを日記に書き殴り、
そこに収めてしまうのが惜しいものを手紙に書き殴る、
そんな午前2時30分です。
アウトプットが過ぎて消耗気味です。

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2008年7月14日 (月)

今年も来たね

私は
プラムとかプルーンとかソルダムとか、
いわゆるすももの類に目がないので
この時期はいつにも増して楽しく暮らせます。
八百屋さんで魅惑的なやつを物色しては
夜な夜な
がりりがりりと齧っております。
…まだすっぱい。

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2008年7月12日 (土)

拝啓景戒様

時間の合間合間を縫って
日本霊異記を少しずつ読んでいるのです。
原文に併せ、丁寧な解説と現代語訳が素人に優しいちくま学芸文庫版で。
これがとてもおもしろいのです。

エロ、グロ、ナンセンス、
そしてそんな世界の中にあってどこまでも寛容な人たち。
形式的な論理とは程遠く、ねじれや飛躍の目白押しです。
あまりに「現実離れ」したその展開にいちいちツッコミを入れだしたらキリがないのだけれども、
その荒唐無稽さの中に、論理など超越した、
わけのわからない説得力がどっしりと存在している気がして、
この力は何だ!と唸ってしまうわけです。

昔、世界は今より不条理や、エログロの類が剥き出しの状態で存在していたはずです。
今それらは例えばオブラートで包まれたり、コンクリートで舗装されたりして、
存在をどうにか隠そうと、誤摩化そうと、隔離しようとする
それはそれで大変な努力によって、けっこう実際騙されておりますが。
潜んでるよねぇ。確実に。
根本は変わってないもの。なにも。

理性とか科学とか産業とか言うようになって以来、調子に乗っちゃっておりますが、
昔は大変でしたでしょう。生存そのものが。
きっとずっと生々しい世界でしたでしょう。
ひとは理不尽で無根拠なそれらを受け入れ、丸ごと引き受けて生きてきたのでしょう。

登場する人物達のおおらかさにはびっくりするばかりです。
自分のみみっちさを恥じ入るばかりです。
近代的自我なんてホントちゃっちいなぁ。

強烈な先達に連続して出会い続け、
心強いやら焦るやら。
あたしゃこの世の中で何を成し遂げられるでしょうか、景戒さん。

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2008年7月11日 (金)

どうしても動物園へ行きたい

諫早湾!
国が控訴!
やっぱりか。やっぱりだ。

環境アセスメントか…
調査の結果がどう出るか、どう調査されるのか、わかりませんが
毎日海を見てる漁業の人たちの実感の方が絶対正しいだろうにって、
思ってしまうんですけどね。
国としては、政治的には、学術的には、違うのかなぁ。

もし開門の決定が覆されたら。
本当にやりきれないものがあります。
山下さん…。

話は変わりますが
本当に上野動物園に行きたいです。
どうしても、是が非でも、上野に行きたいのです。
みんなに会いたい。会いたーい。
蓮!もう終わったか!不忍池の蓮は!終わってしまったのか!

ものぐるほし。

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2008年7月 7日 (月)

伸びんとす

初夏に入って以来一段と
雨と陽光の恩恵を浴びてダイナミックな成長を続けていた
うちの前の原っぱの野草たちの
その昨今の伸びっぷりたるや
ちょっとこれはほほえましく見守ってるレベルを超えつつあります。

ベランダから浸食して、布団が干しづらいなぁという段階から
得体の知れないツルが網戸に絡み付きだし
次は室内へ入って来るのではないかとの懸念が。
ほんと、1日で数センチは伸びる。

さながら
井戸の縄に朝顔のつるが絡まっていて
切るには忍びなく、水を汲むことができなくて困ってしまった少女の逸話のごとく

悩ましい毎日です。

まあ、最終的には
暫く真剣に悩んだ後、えいやっと根こそぎ引っこ抜いてしまうのですが。
引っこ抜いても引っこ抜いてもまた忍び寄って来る。
奴らの生命力は物凄いです。

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2008年7月 3日 (木)

愛/愛着

バルトさんの仰ることに
いちいちうろたえていた大学入りたての頃に比べたら、
結構たくましくなったよなあと思うのです。
ただ免疫が付いただけかもしれませんが。

愛着じゃだめだ、愛じゃなきゃだめだ、と言われても、
たじろがず、身に覚えがあることをとっかかりにして考え始め、考えた結果を、また実践につなげる、という環の中にとりあえず入れてみようと、思うのです。
じゃあ愛着と愛の違いは何か、と考えることには、

「愛着のディスクール」というのが、好きである何か(ここでは音楽)について語る際に、
その根拠を音楽の側でなく自らの情緒や感性やら趣味に求めた結果、自分語りに陥ってしまうというもの(と理解したの)です。
音楽を語る時に用いる形容詞一つをとっても、その形容詞を選択するのは「私」であり、
語る行為が必然的に「私の印象」でもって音楽そのものを閉じ込めることに他ならなくなる。
自分にくくりつける(attach)ことになる(愛着=attachment)。

でもそうするしかないじゃないか、ということではなくて、
自分の感性などという安いもので閉じ込めるのが許されるほど、小さいものではない相手というものにぶつかった時にどうすのかい?ということではないか。
そういう相手をいつもの調子で手なずけて飼い慣らそうとすると、無理が生じるわけです。
その無理を、語りの対象を自分自身に持っていくことでごまかすと、他者には伝わらないし説得力も無いし、多分求心力も無いでしょう。

丸腰で、ポテンシャルだけで挑むのは大きな失礼になる相手もいるということ。本読んで腕磨いてついでに顔も洗って出直して来い、っていうことになる。
そこで逆ギレしたり意気消沈して諦めちゃったりしたらそこでおしまい。
相手に言葉が、ひいては自分自身が追いつこうともがくことが、愛であり、
そういった愛の成れの果てに編み出されるのが「愛のディスクール」なのではないかと。
結局言葉は自分で選ぶしかないから、結果は一緒に見えるかもしれないけれど、全然違うものだと思います。
ポエジーですけれども、そういうものもあってほしいと思います。

そういうことを考えたのも、
この前の動物園が消える日の稽古中であり、
自分の経験なんてものからこじつけちゃうのも、また一つの愛着でしかないのですが。

前だったら、じゃあいったいどうすればいいんだ!ぐわあー!となっていたところですが、
作者なんて死んでたって、
愛着でしかモノを語れずに愛に届かなくたって、
それでもやめるわけにはいかないんだよ、と踏み留まることができるようになりました。
それは決して、言うことを聞かないとか、反論とか開き直りじゃなく。
むしろ、理解した上で語るのをやめてしまう方が、ただの誤解より罪深い誤解なのかもしれません。

正しいことを、消極的である言い訳に使うのは間違っていると、確信をもって思うのです。
生きているのは私だし、ひっかかるのは私だし。
先達の言葉を噛み締めながらも、書くこと語ることを続けます。


時代(その場の状況なりシーンなり)の主流に対する親和性の高いものが生存する。
順応できないもの、順応することをよしとしないものが、顧みられなくなったり流されたりすることがある。
そういうものの価値を、後者に代わって(または補って)、みんな(誤解が生じていると己が感じる対象)に伝えるという仕事。
順応できない生物は絶滅から逃れられない。にもかかわらず残したいと思うんだったら、力入れてやらないと残らない。大変な仕事だ。
そこに意味はあるのかとかそんなん知らないけれど、私が勝手に残したいと思ってるんだから、私が頑張らなきゃいけない。
たぶん愛の深さが問われています。

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2008年7月 1日 (火)

ドーント!ブレイク!ザ・牛!

楽しいことをやれ楽しいことを!楽しくなれることを!
こんばんは。元気です。ジュライ!

突然ですが近頃つくづく許せないのは弱いものいじめです。
何か他の存在を己より低く見なしちゃうところが許せないです。
北野天満宮の牛の像を割るとか!
街路樹を根っこから切っちゃうとか!
相手に反撃されないのをいいことに!
お前ごときにそんなむげに扱われていいような存在があると、ゆめゆめ思うなよ、と思います。
それはつまり想像力の欠如です。
想像が働かない状況、おっかないです。回避せよ!
人間追い込まれると醜いとか、むしゃくしゃすると歯止め効かないとか、そんなん知っとろうが。

そこをどうにか、他にぶつけないように誰かを悲しませないように踏ん張るんでしょうが!
人間なら解決策を見つけなきゃいけないんでしょ、がんばって見つけなきゃいけないんでしょ。
話なら聞くよ、気に障ったなら謝るよ、だから牛を割らないでよ。
優しい人たちを悲しませちゃいけない。

…小っちゃい頃、面白くないことがあってタンポポ踏みつぶしまくったことを、未だ悔やみ続ける二十歳です。
めちゃくちゃ怒られたなあ。

そうそう諫早湾の堤防の門が開くらしいですね。
おめでとう!おめでとう!ありがとう!

あともう一つどうかと思うのはエコ自慢です。
エコ自慢ペーパーなるものをもらって違和感しきりです。
自転車買ったくらいで自慢するな!水筒買ったくらいで自慢するな!
買っただけじゃ単なる消費だ、てかエコって自慢するもんじゃないでしょう、そのメンタリティおめでたすぎる!
巷で飛び交うエコっつう言葉自体が消費社会の一環に都合良く組み込まれているようで。
元来もっとでっかい問題だったような気がするのは私だけでしょうか。
いちいち目くじら立てちゃって余裕ないね、クスッなんて笑われちゃうんでしょうか。

でもさ…償いだと思うんですよね…そもそも。
切実さは強要できないからなぁ。押し付けは逆効果だしなぁ。仕方ないかあ。

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