« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »

2006年7月31日 (月)

ありがとうございますが、言えなくて。

今日は初の駐車場勤務。

量販店の駐車場を出る車、店から帰ってくる歩行者、近隣住民の車、一般の歩行者、自転車、店から来るフォークリフト、をさばく。いろいろ優先順位等のルールがあって最初テンパった。一時大混雑が生じて更にテンパった。
駐車場の中にあったカラーコーンを轢いて車底に挟んで、そのまま出口まで引き摺ってきた車が来て、慌ててコーンを救出したり。

一日中蛍光棒を持った腕を振り回し、「いらっしゃいませー」「すみませんー」「ご注意下さいー」「直進車両通りまーす」「ありがとうございまーす」と叫び続けていたので、腕と腹筋と舌の付け根付近が筋肉痛。

…つくづく私は滑舌が悪いなぁと思った。
ヒヤッとする場面に出くわして、あっ何か言わねば、と思って何か口にしても、滑舌が悪いので何を言っているのか全くわからない。何か言おうと考えて、思いついた言葉が長過ぎたり言いづらかったりすると、思いつきの時点で却下。言えないので。
その上、一度つっかえると、言い直す前に車は行ってしまうのです。切ない。

しまいには、「ありがとうございます」が言えなくなった。
まぁ最初の方から「あーとーざいまーす」だったのだけど、もう業務開始から6時間も経つと、「あ」「り」「が」「と」の音を区別して言う為の腹筋の力が完全に失われ、「あーらぁいまーす」になり、最終的には「はぁーとだぁーす」になる。

「ありがとうございます」

「はぁーとだぁーす」

原形を留めていない。意味が全くわからない。そもそも何語だそれは。しかもそれを車を出す度に大声で叫ぶ。言う度に微妙に発音が変わる。そして結局どれも「ありがとうございます」にはならない。
しかし「ありがとうございます」を言おうと意識すると、「あり、ありあっ」と完全に舌がもつれて更に酷い事になる。
ああ、言えなかった。ありがとうございますが。

夕方になって暗くなってからは、蛍光棒の灯りを点けて誘導した。灯りを点けたのは初めてだったので、やたらテンションアップ。滑舌滅茶苦茶だけど。

というか、チームで動いたのはこれが初めてだったので、非常に楽しかった。
やたら弁が立って、会話の切り返しが素早くかつ鋭い少年、パッと見怖いけど子供思いで優しい若い女の人、難解なダジャレを駆使するおじさん、無意識のうちに乙女心を翻弄するという噂の管制さん、クワガタムシの本を熱心に読んでいる一児の父。…こんな感じで、メンバーがやたら面白かった。あー面白かった。
先輩方みんな仕事する物腰が優雅だったので、真似した。
踊るように誘導!歌うように発声!さながらオンステージ(in駐車場)。でも私は滑舌が悪い。…はあ。

しかし今日は面白かった。エキサイティングだった。
チームワークっていうものを、本当に久しぶりにやったからなぁ。
みんなで一緒に帰るというのも久しぶりにやった。


明日は再び孤独な工事警備だ。
ガッツ。
そして明後日からの生活が全く見えない!
…ガッツ。

あ、梅雨にしては、吹いてくる風がやけに爽やかだなぁと思っていたら、今日で梅雨明けしたんですね。
ギリギリ8月に間に合いましたね。もう、心配したよ。

…夏だー!遂に来た!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月30日 (日)

忙しく遊ぶ

ここのところバイトが目白押しなので、こういう暇な日にその分を取り返すべくいろいろやっておるわけですが。
「その分を取り返すべく」っていう時点でもう間違ってますね。その日の楽しみはその日に楽しまないと。
取り返すのは不可能です。取り返そうとすると、取り返すために使う時間というのがまた、かわいそうです。
遊ばなきゃ!っていう時点で、なんか「遊び」は「遊び」でなくなるわけで。
格式張った遊びは、遊びではない。そういうのを形骸化という(のか?)。
…とにかく、忙しいと、暇であるはずの日まで、何となく慌ただしくなってくるんだよな。浸食されてきちゃうんだよな。
いかんいかん。


バーゲンの案内を頂いていたので、いそいそと行ってみた。一度行ってみたかった、バーゲンin倉庫。
90%オフになっている哀れなTシャツとかが山のように積んであるのを目にして、おぉこれこそバーゲン!とひとり盛り上がる。
BGMがやたらせかせかしていて、やばい!これは煽られているぞ!とひとり警戒する。
同じ服を巡って他人とバトル、という状況をちょっと期待していたけれど、結局それは無かった。
最終的に余り収穫しなかったが、バーゲンは、アトラクションだ。うん。

その後映画1本目。
『男はソレを我慢できない』という映画の存在は、不思議な六月の夜〜前夜祭〜で知ったのです。ライブ中に竹中直人が突然登場して、ワタナベイビーと「今夜はブギーバック(竹中さんがまだ歌詞覚えていないので途中までver.)」やっていたのを目撃して、ああこれは観に行こう、と決定。
という背景もあり、俳優ワタナベイビーを見る目的で行きました。目的は十二分に果たせた…ってか一番おいしかったんじゃないだろうか、ベイビーさん。…雄飛さんが出てきたので更に果たせた。
てかフライヤーの作りもそうだけど、出演者の顔ぶれ自体が映画の魅力のうち大部分を占めてる感じだ。出てくる人をどれだけ知っているかが、そのままこの映画をどれだけ楽しめるかに反映されてくるような。あと下北沢っていう場所の要素も少し。知ってる人はニヤける、みたいな構造。
私は大いに楽しんだ(特に前半)けれど、これは「好きな人達が楽しそうにやっているのを見ているのが楽しかった」わけであり、「映画を楽しんだ」わけではないんだよな、とちょっと冷静になって思った。
ま、楽しんだことに変わりはない。

その後、ある方に紹介して頂いた展覧会を見に原宿まで歩く。
会場は「AGARU」という和服屋さんで、着物と浴衣の違いも曖昧な自分が足を踏み入れて良いものかどうか、一瞬ためらったが、意を決して入場。
小さな個展だったけれど、何だか、何か思い出した。焦りか。リアルな焦り。何やってんだ今自分!とか、目が覚めたような。
やっぱり、何かしている人の動向を常に目にしていないと、駄目だな。今の自分になんとなく妥協しちゃっててさ。まぁ、こんなもんか、と。
全然、こんなもんじゃないぞ!というのを、見せ付けられていないと、駄目だ。と思った。

ちょっと長居して次の映画に遅刻。
うん、これが映画だ、と思いながら見始めたけれど、それもどうなんだろうなぁと思う。
「古典」というものを敬遠しない為に「古典だって凄いんだ」と思うのは良いと思うけど、「古典だけが凄いんだ」っていうのは明らかに違うな。
…つべこべ言わずに何でも見ろってことか。
まだ何も偉そうに論じられる段階ではない。

あーまたこんな時間だ。
明日明後日また労働。


見た映画:
   信藤三雄 『男はソレを我慢できない』
   ジム・ジャームッシュ 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月29日 (土)

電線は、思いのほか重い。

(↑本日の発見。
まとまって頭上から降ってきた電線の切れっ端を拾ってトラックの荷台に上げている時に発見。
線、なんてひょろいもんじゃないぞ、あれは。)

朝、母が車での送迎を買って出てくれたので、これ幸いと便乗したのだけど、実際やってみて、親の送迎付きで働くって、もんのすごくカッコ悪いなぁと思った。もう、やらない。

というわけで本日も一昨日と同じ場所で同じ仕事。だが全然違う!一昨日に比べて、何とやりやすかったことか。

まず天気が違う!
そして水分がちゃんと確保されている!
そして昼食がちゃんと食べられた!

天気の影響力というモノのすさまじさを、ここのところすっかり忘れかけていたのだけど、完全に思い出した。
もうね、人間なんてちっぽけなもんだ。天気に対して人間ができることといったら、てるてる坊主を作るぐらいのことしかない。
気候気温湿度風力、それらが屋外の行動の全てを決める。それらを全て握ってるという時点で、自然の勝利、決定。人間なんて所詮、屋内に自分の過ごしやすい環境を作ってそこへ逃げ込んでるだけの存在です。姑息でごめんなさい、自然。
…話が変わった。あと、水分ね。my水分があるってだけで安心するね。
あとはもう食料!昼食!食べたモノがエネルギーになるんだな、という事を改めて認識した。全然違った。

そういうわけでスムーズに終了。
蛍光棒の使い方もわかってきた。何処に立てば自分の存在が無意味にならないか、有効になるか、ということも、考える余裕が出てきた。通行止めの時にどう道を塞ぐかとか。ひとり片交もできた。何よりです。


あと今日はトトロやってたね!恒例の。夏トトロ。
何を隠そう、私の第5の特技はずばり「『となりのトトロ』を口頭で完全再現すること」なのです(たまに振り付き)。
友人に披露すると、最初は面白がって聞いてくれるものの、残念ながら、

「サツキが新しい家の二階の部屋の窓を開け、タンスを運んでいる父と運送屋さんに声を掛けて、運送屋さんがずっこけ、サツキが「大変!」と言って階段を駆け下りて行く」

辺り(マックロクロスケが出る直前)でだいたい飽きられるので、最後まで通したことはありません。私の修行不足です。いつか最後まで…!
…とにかく大好きです。何度観たか知れません。何度観ても泣く。涙を我慢すると鼻水が出る。パンダコパンダも好きだけど、やっぱりトトロだ。

ああ、サツキちゃんのような子になりたかった。ってか今でもなりたい。


読んだ本:
   枡野浩一 『淋しいのはお前だけじゃな』
   ナセル・ケミール(編) いとうせいこう(訳) 『イスラムの言葉』

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年7月28日 (金)

標準ルール無しの世界で楽しくやる

まだ残っている人も居りますが、私は今日で全ての試験が終了。前期、終了!早いっ!!
何か色々な人達に会って、大袈裟に別れの挨拶をした。
夏休み2ヶ月、短いように思うけど、日々会っていた人達と2ヶ月会わないのかと思うと、長いな。

その後ミニコミ誌についてネットで調べていたら、どうやら中野に面白い店がある、という事が判明。学校帰りに寄ることに即決定。
久しぶりに中央線に乗る。新宿で満員なところを無理矢理乗り込んだので、中野(降り口反対側)で降りられそうになく、まぁいいか〜ということで次の高円寺で降りた。
初高円寺。これが高円寺かぁ〜と、商店街をふらふらする。ふらふらついでに古着屋とか入ってみたりする。喋る。中央線沿線に詳しいと見えるお客さんと店員さんの会話に聞き耳を立てる。楽しそうだった。
今度来る時にはちゃんとしっかり回ろう、ということで中野へ戻る。

タコシェという、目的の店を見つけるなり、始めっからその雰囲気に緊張。足を踏み入れて、置いてある本の並びを一目見て更に緊張。わけがわからないまま、数冊手に取って、またその独特な紙面に緊張。心地良い緊張。
…なんだかもう、何でもありだ。
「これは言わないでおこう」とか「これを企画にしたらダメだろう」というような自制というか、暗黙の了解をことごとく破っている。”お行儀良さ”というものを鼻で笑って、マスコミではできないような事を平気でやっている。ミニコミだからできる事だと言えるけど、全てのミニコミがそうであるわけでもないということもわかった。
折角自由にできる環境であっても、作る側の中に先に述べたような「〜したら駄目」という堅苦しいストッパーが刷り込まれていると、結局それに捕われたモノしか出来ないんだろうと思う。
何が良くて何が駄目なのか。その判断をするのは他でもない自分でないと、そこで常識とか既成概念とかに判断を任せていると、結局なんでもないものになってしまうんだろうと思う。
何も、ムキになってタブーに挑戦することもないと思うけど、やっぱり折角こういう恵まれた機会があるのならば、「そこでしかできないこと」をやってみたい。実際にやっている人達が居るので、尚更。

そして、自由があれば責任がある。何でもありっていうことは、言い訳ができないということだ。何かのせいにできないということだ。何か足りないところがあったら、全部自分のせいだ。
面白さもつまらなさも、全部自分次第!
ああー、怖っ!でも楽しそう。

…またこうやって偉そうな事言っちゃって、自分でハードル高くして、途方に暮れている。
色々漠然としすぎていて、全然形にならない。
凄いことやってやろう、って妙に肩肘張っちゃってるんだろうな。「等身大」でいいやっていう妥協は非常にイヤだけど、謙虚さも必要かと。思う。「等身大」、好むと好まざるに関わらず、結局自分の大きさ以上のものはできないだろうから。
だから勉強だ。


読んだ本:丸山圭三郎 『ソシュールの思想』

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年7月27日 (木)

初仕事は大騒ぎ(自分の中でだけ)

長いですが、すみません。

「きゅーちゃん(←私)はけっこーぬけてるトコあるからしんぱいやぁー」
と、おっとりとした印象の友人に言われたのはつい最近のことだ。
ばれてる人にはちゃんとばれている。自分では隠せているつもりでも、しっかりばれている。
その通り、私は時折、恐ろしいミスをしでかします。もはやおっちょこちょいの次元では、ない。シャレにならない。そこを無理矢理シャレにすることで事の深刻さをごまかしている日々です。
事例を挙げればきりがないので、今日は今日の話を。


昨日はその後、都合により床で寝た。都合…うちの猫がらみとだけ言っておく。
床なら寝坊もしないだろう、という作戦も兼ねつつ。
…まぁ、見事に失敗したけどね。
しっかり熟睡。いつものように寝坊。ぼんやりと目を覚まし、飛び起きて大騒ぎ。

遅刻は非常にマズいのであらゆる朝の行動をすっとばす。勿論化粧なんて滅相も無い。紫外線対策なんて始めから頭の中に無い。朝食はバナナ1本と麦茶を1杯。
しかも現場の最寄り駅から先はタクシー。稼ぎに行くのにタクシーなんて使う奴があるか!と、その時点である程度間違いは生じていた。しかし背に腹は代えられず。
何とか間に合って集合場所に着くも、現場に着替える場所が無い。やむを得ず隣の保育所にお願いして、中で着替えさせて頂いた。

集合場所から現場へ移動する際に、私は最大のミスをしでかした。
私とは別の現場へ行くトラックの荷台へ、着替えからタオルから財布から定期やら携帯から、とにかく私の全ての持ち物が入った荷物を乗せてしまった。間違いに気付いた時には、まぁ何とかなるだろうと呑気に構えていた。
…甘かった。

そして始まった工事現場の警備。というかつまりは交通誘導。
まず、無意味な動きをしてはいけない、という私にとっては辛い制約がある。というか、私の一挙手一投足全てに意味がついてしまうことを今更ながらに自覚。びびる。
たどたどしく車の流れをさばきながら、プール帰りの小学生3人組に、捕らえたセミを自慢されたり、おばちゃんに労ってもらったりして、午前中はスマイルの調子も良く無事終了。しかし朝のバナナの力だけで炎天下に立っていた私は、そろそろ水分と昼食を切望していた。

しかし、それが叶わないということが、昼の休憩の時に発覚。私は初めて事態の深刻さを思い知った。
私の荷物を積んだトラックは、私の担当の会社とは別の会社で、連絡の取りようがない。私は私で、携帯も荷物に入っているのでそこの担当のSPに連絡することもできない。
荷物はどうやら、そんなに簡単に戻ってくるものではないらしい。しかしそこには財布が入っている。というか全てが入っている。あれが無ければ私は一文無しどころか、完全な手ぶらだ。携帯も無いので助けを呼びようが無い。
まさか私が金すら持っていないとは思わなかったらしく、工事の兄ちゃん達は連れ立ってジョナサンへ行ってしまう。私は陽のさんさんと降り注ぐ真っ昼間の市街地に一人取り残された!
手ぶらで徘徊。
公園があれば水道がある筈!と徘徊。
しかし公園は無い。民家の庭にある蛇口が私を呼んでいた。見つかったら、お宅の庭の警備をしておりました、とか言おうか、とか一瞬考えた。言い訳完成。しかし警備員が住居侵入罪で捕まるとかちょっとシャレにならないので踏みとどまる。
結局スーパーマーケットを一つ見つけて、暫く中で涼んで、駐車場にあるベンチで10分程眠り、裏にある蛇口を拝借して水道水がぶ飲み。…ひもじかった。

それで昼休み終了。長い長い午後の始まり。
既に気力だけだった。しかも2時頃の最も暑い時間は、外出している人も皆無に等しい。暇。
住宅地なのに、人の姿が見えない。工事の人達は電線の高さまで上がってしまっているから、地上に居るのは私だけか!という状況だった。強烈に寂しかった。私はうさぎ年なので、寂しいと死んでしまうのだ。
周囲の民家の中には、確かに人が居るはずだ!ちゃんと人は居るんだ!と自分を励ました。ああ、透視ができたらなぁ、と思った。別に変な意味ではなく、確かに其処に人が居る、ということだけでも目に見えればなぁ、と思った。そうすれば、結構安心できるように思えた。しかし民家の壁はどんなに目を凝らしても壁でしかなく、ここは想像で耐える。
あと風鈴の音に癒される。風鈴って、いいものですね。

と、何かトリップしていた所へ、目の前の家からおじさんが登場、麦茶に氷を入れて出してくれた。
ああ、もう、これは、…!という、何これ。感激?感動?うーれしかったなぁ。
2口で飲み干した。冷たいものが、指先までさーっと浸透して行くのを感じた!一気に生き返る。
また別の人が水をくれたり、飼い猫(育ちの良さそうな三毛猫)を見せてくれたり(笑)して、ああ、いい人ばっかりだ!とやたらと感じ入る。

しかし流石に終盤となると限界だった。バナナ一本と水分だけでは、この久しぶりの炎天下に焼かれながら一日中突っ立ってられないって。おなかとせなかはくっつくし、足は棒になるしで、何か体がいろいろ大変だった。しかし全ては私が違うトラックに荷物を置いてしまったのが悪い。
へろへろなところを、車中の婦人に不条理な事を罵倒されたりして、更に消耗に消耗を重ねて、やっと終了。

荷物は本当に永遠に戻ってこないのではないだろうか?という予感が掠める中、私の荷物を乗せたトラックで現場へ向かっていた同僚のSPが持ってきてくれた。しかも荷物を掲げながら、向こうから走って持ってきた。
もう、スローモーションで見えた。ああ、やっぱりいい人ばっかりだ…!と、何か泣きそうだった。
その後速攻自動販売機で500mlペットボトルを買い、5歩進むうちに全て飲み干す。しかも全く喉の乾きが収まらない。結局3本飲んでやっと収まった。
何だか寝坊から始まる非常にバカバカしい間違いで通常の5倍近く疲労して、本当にバカだなぁと呆れ返ります。日焼けも凄いし。しかも、長袖長ズボンヘルメットに加え白手袋もしているので、焼けたのは顔だけ。

自分に呆れながらも考えた事。
警備員というものは、…まぁ警備員に限らず、常に知らない人達を相手にする仕事なら何でも同じだと思うけれど…、「これまでの自分」というものが全く通用しない。「今」その瞬間、その瞬間にした行動だけが、自分がどういうヤツかの判断材料になってしまい、しかもそれに対する弁明をする暇も無く、ドライバーとか歩行者は通り過ぎてしまう。
怖いな。これは、何か…闘いだ。
不条理なことも多々あるけれど、そこに何か面白さを感じます。

しかし…ホントどうにかならないものだろうか、この「ぬけてる」ところ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月26日 (水)

スルメの匂いに包まれながら

もうやめた。
もう、苦手を克服しようとかそういうのはやめだ!
…数学の話。いい加減、懲りた。というか、センター試験の時点で懲りるべきだったのです。
200点満点中74点、っていう、この大学にそぐわない得点を頂いてしまった時点で、極限まで肩身を狭くして、以降の生涯ずっと数学と名のつくものは全て敬遠してればよかったんだ!それを、授業取れば、ちょっと克服できるんじゃないかって、一縷の希望を持つという勘違いをしてしまった時点で、甘かったんだ!
というわけで再履修はしません。もうたくさん。
数学を今度勉強するとしたら、老後にすることにする。とりあえず今はやめ。

ここのところ頭がぼーっとしている。鈍い。遅い。意識がいつもよりふらふらしている。視界が何か違う。
寝不足?夜寝てないから?でも夜眠れないんだよな。朝寝てる。寝坊。結果的に寝過ぎ。
そんな中何故か、ああ、死にたくないなぁーと、時折痛切に思い、またふらふらとする、っていう繰り返し。
何だか明日にでも死んでしまうんじゃないか、って、ぼんやりずっしり、思うので。
明日は資材置き場へ出向くし。絶対に無いと言いきれないこともあり、ああ、絶対に死にたくないなぁーと。
あと、狂いたくないなぁーと。自分が狂いませんように、身の回りの人達が狂いませんように、みんなおだやかでいますように、と、思ったり。

ブナンな生活は嫌で、ぬるいだけでは嫌で、でも死ぬのも狂うのも嫌だ。これはわがまま?

しかし何で突然こんなに死とか考えてるんだろ。そういう時期なんだろうか。やっぱり夜は寝るべきなんだろうな。

帰りの電車の中で本を読んでたら、何か没頭して、「本を読んでいた」ことしか覚えていない。電車の混み具合とか、途中の駅の事とか、アナウンスとかの記憶が無い。我に返ったら地元に着いていた。あれは夢だったのか!でも本のページも最後まで着いていた。

あ、関係無いけど、記憶の中の視界ってあやふやだと思う。見ている時はちゃんと視界の広さの分だけ見ているんだろうけど、それが記憶になると、もうその時の視界の端っこに何があったとか全然わかんないもんね!都合良く切り取られてるね。膨大な量が捨てられてるね。パソコンで言う圧縮かな。圧縮よりもっと酷いな。なので記憶なんてあんまり頼りにならないと思った。写真より目の方がずっとすごいや、と思っていたけど、写真はある領域内の視界を律儀に全部残してしまうからすごい。でも写真に収まりきらない分が広大にあるので、写真の力を借りたとしても、結局、私に認識できる、私が覚えている世界なんていうのは、ごく一部だな、と思った。

窓の外からスルメの匂いが漂ってくる。こんな夜中に。
うーん、何だかやっぱり変だ!寝よう寝よう。すやすやと。


読んだ本:
  石川浩司 『「たま」という船に乗っていた』
  中島らも 『ガダラの豚 Ⅲ』

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年7月25日 (火)

何を問題にするかというのが問題なので


そんなこんなでイスパニア語試験、こてんぱんにやられました。惨敗。コールド負け。だってこっちは丸腰さ!対策も何も無しさ!
これから頑張ろう、これから頑張ってみせよう、と、問題解きながら(いや、解けなかったんだから、解きながらっていうのは語弊があるな)ひしひしと思っていた。
私ってそんなんばっかりだ。しかしもう仕方が無いので、運に任せて、再履修を免れることを祈るしかありません。

別の試験で論述があったのだけど、問題を前にしてからの5分間は焦った。あせった。汗が出た。
書ける気がしなかったものなあ。湧いてくる筈の「こういうの書いてやろう」計画が、もうガラーンとしていて。空っぽ。書いても、何だか文章の切れ味というものが、錆びちゃったな、と。汗が出た。
軌道に乗って、先の展開が見えて、エンジンがかかってしまえば、あとは書くのみなのだけど、その段階まで持って行くまでが緊張だ。湧くか湧かないかは、その場になってみないとわからないので。怖いな。今日は幸いにもその後ノッてきたからよかったものの。あー怖かった。


渋谷に行って、どう歩いても目的地が消えてしまっていて、右往左往。つまり迷子。
東急ハンズをうろつく。途中で化粧品販売のおねえさんに捕まる。話を聞くのは好きなので延々聞いていた。
何だかよくわからないけれど、とりあえず今のままだと恐ろしい事になるようだ。どんどん悪循環が進んで行くのだそうです。それには正しいスキンケアが必要で、それには一般で出回っている製品ではダメで、そこで当社の…以下略。
どうも胡散臭さを感じてしまう、というか胡散臭い点を探してしまう。「副交感神経を刺激」とか「国際特許」とか、そういう科学のお墨付き!とか何かの権威のお墨付き!というモノを見ると何でも疑ってみたくなる性分なので(マイナスイオンもイマイチ信じられない)、内心でいちいちつっかかっていた。
しかし今の「お手入れ」がダメであるということは認めざるを得ないので、今は今でダメだし、しかしこれは胡散臭いので信用できないし、…という何とも希望の無い状況に陥ってしまって困った。
確かにさ、お肌であるとか、身なりであるとか、ないがしろにして悪いなぁとは思っているのです。ごめんね私の肌。そして私の身なり。
でも、今はそれどころでないのです。もっと改めなければならないことが山ほどあって。先へ進まなければならなくて。
そんな中で、お肌が荒れてますねとか、髪の毛がちんちくりんですねとか、そういう大して問題でもない事をいちいち掘り返して、改めさせようとするなんて、相手は善意のつもりなんだろうしそれは非常に有り難いのだけど、余計なお世話というか。そういうコトで足止め食らってる場合ではないんだ!と、思った。

その後、そこが乙女心の欠如というものなんだろうか。とか思ったり。
後味悪かったのでやたら沢山CD借りてきて発散。


借りてきたCD(本読んでいないのでこれで誤摩化せ!):
   テルスター 『テルスター』
   フラワーカンパニーズ 『フラカンのフェイクでいこう』
   Theピーズ 『とどめをハデにくれ』
   BOREDOMS 『スーパー アー』
   戸川純 『東京の野蛮』
   TOMOVSKY 『EXPO』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月24日 (月)

なんとかなるかな

明日はテストだし勉強しようかと思ったのです。 しかし駄目だな。全く駄目じゃないか。 集中できないのはきっとこのごちゃごちゃした机のせいだ!と、机の上の整理を始めて数時間経過。いつものことです。 めったにやらないクセに昼食作ってみたり。 挙げ句すやすやと昼寝ときたもんだ。 ダメだねぇ~。無為な一日とはこのことだ。しょうもない。 こうして起きていても、勉強するわけでもなく、BS見てるわけだ。 ダメだね。 …明日。ってかもう今日か。 なんとかなるかな。えい!なんとかなれ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月23日 (日)

7月22日に考えたこと


久しぶりにフィルムセンターへ行ったら、2年の先輩に出くわした。
思いがけず誰かに偶然会う、という事態が非常に好きなので、俄然テンションが上がり必要以上に喋った。
基本が個人行動だと、誰かと話すということに貪欲になります。結局寂しいのね。

それはともかく。
話の流れで、
で、これからどの方向を極めようとしてんの?
と聞かれて、うーん…と、考え込んだ。

いつまでもこう、映画とか音楽とかにいろいろ首突っ込んで雑食なままでいけば、
結局中途半端なことになるんだろう、いつまでたっても「受け取る側」でしか居られないのだろう、
という危惧はあるものの…、…でもなあ。
映画撮るとか、バンド組むとか、いろいろ「表現側」にまわっている人達は周りに結構居るけれど、
未だ、自分にできる最良のコミュニケーション手段は、会話なんだよな。直接対話。
それ以上の手段が思いつかない。何かに仮託しようと思えない。
口で言えることは口で言うし、そうでないことはここに書いてしまうし。それで事足りているんだよな。
映画見るのは好きだし、音楽聞くのは好きだし、そういうのは外とか他者とかを知りたいからなのだろうけれど、その手段をもって自らも何かを伝えるか?となると、…うーん。と。考え込む。

…と、こうしてつらつら書いてみて、未だ自分が「作者の死」(バルト)を受け入れられていないことがわかる。
まだ、「伝えたい事」とか「表現」とかそういうことに縛られている。
芸術(って大雑把に括ってみる)をコミュニケーションの手段と取ってる時点で、何か違ってしまっているんだろうか。

とにかく自分の中ではまだ、映画、とか音楽、とかジャンルを決めてしまうことが、「自分を狭くする事」でしかない。でもそれを恐れて何もしなければ、結局このままで終了してしまう。
いつまでもただおとなしく「受け取る」だけっていうのは耐えられないぜ!という思いだけで、飛び出せるものなんだろうか。飛び出していいものなんだろうか。
それとも、このまま生きていく過程で、ああ、これは言葉じゃとても言えない!ということに直面するんだろうか。
それより、なんか頭で考え過ぎ?

何だか、これと同じようなことを前にも考えたような。
相変わらずちっとも成長しないなあ。
もう、4月5月の2ヶ月に比べて、この6月7月の2ヶ月の短さといったら!
こんな感じで加速したまま、8月9月の夏休みも終わってしまうんだろうか。
…こういう歌あったな(tomovsky『20years』)。


レニ・リーフェンシュタールという映画監督の存在を、高校の時に美術の先生に教わったのだけど、その作品を今日見てきた。
一部ぎょっとする箇所もあるけれど、普通に楽しんで見られる記録映画(ベルリンオリンピックの)だし、そもそもそう作られている。
実際に映画だけを単体として切り離して考えれば、素直に凄いと思った。映し方、スローの使い方、編集の仕方次第で、こうも「劇的」になるのだなぁと。漕艇競技の撮り方一つとっても、見る人にあのハードさが伝わるように撮ってある映像なんて今まで見た事がなかった。

けれど、今回ばかりはそれなりの時代背景がある事もあり、プロバガンダ映画、ということを念頭に置かざるを得なかった。本当は先入観を持って映画に当たってはマズいのだけれど…。
映像と音声を効果的に使った時の威力を再確認した。
先日の森達也氏の話も思い出しながら。

劇的に演出されたこの映画がいかにして時の政権に利用されたか。
同じ一つの事実でも、そこには見方によって様々な側面があって、良い側面ばかり選び取った場合と悪い側面ばかり選び取った場合では、全く違うものになってくる。
元来、ベルリンオリンピックという出来事に対するあくまで「一つの視点」でしかなかったはずの映画が、それを見たあらゆる人に共通のイメージを植え付け、その視点が普遍的なものになっていく。映画がよくできているからこそ利用されたし、その効果も大きかった。

映像・音声メディアの「わかりやすさ」という力を、為政者の側(ヒトラー然り、今のの政治家然り)がちゃんとわかっている以上、一般の人も知っておくべきだろうと思う。
そうでないと、その力が政治的に利用された時に、ころっと騙されてしまう。
そこで見せられているもの、聞かされているものだけが全てではないということ。
それは、作り手の主観が見せて、聞かせているいくつかの側面でしかないということ。
映画だけでなく、ニュースにしても、何にしても。
鵜呑みにしてしまった方が断然ラクなんだろうけど…そこは頑張っておかないと、後々困る事になるだろうから。
って言うかもう既に今も…ねえ。


見た映画:
    レニ・リーフェンシュタール
       『民族の祭典 オリンピア第1部』
       『美の祭典 オリンピア第2部』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月22日 (土)

笑う門には福が来て欲しい

(つい忘れてしまうので、中止と再開を繰り返してはおりますが、
とりあえず笑顔キャンペーンは現在も続行中です。
友人に、今日はやけににこやかだねぇ!と言われたので嬉しかった。
そう言ってもらう為にニコニコしているのだと言っても過言ではありません。ニコニコのしがいがあります。
一歩間違えると、今日はやけにニヤニヤしているねぇ!と言われてしまうので、
そこらへんの加減が重要です。)

今日行きの電車の中で、幼稚園の時に同じ組だった友人の母に遭遇しました。
12年越しの再会。しかも友人本人でなく、その母。
一度覚えた顔は忘れない、という自負は前々からあったけれども、今日ばかりは自分でもよくわかったなぁと思いました。眠っていた力が、置かれた状況に呼ばれてひょいっと出てきたようで愉快でした。
しかし、最後に会ったのが私が6歳の時ということで、当然の事ながら最初相手の方が私を忘れており、このままではただの不審者に終わってしまう!と思い必死でアピールしました。わかってもらえたのでよかった…。
本当、人の顔だけは忘れません。
イメージチェンジ、略してイメチェンも見破ります。むしろイメチェンしたことに気付きません。
10年は忘れない事が今回判明したので、安心してまた新たな人付き合いに乗り出そうと思います。

あと、バングラデシュの件、また新たな難関が判明。
公用語が、ベンガル語。
…ベンガル語って…見当が付きません。
ただでさえ、
アイルランド:英語、モロッコ:アラビア語orフランス語、メキシコ:イスパニア語
と、この通り、行きたい国候補の公用語が一つとして被ってないのに…更にベンガル語か。
ちょっと待て、ネパールはネパール語!?
…ああ。
私は一体何ヶ国語を身につけなければならないのでしょうか。
公用語はわからなければならないものなのでしょうか。
英語は国際語だというけれど、どれだけ通用するのでしょうか。


読んだ本: 瓜谷良平『スペイン語の入門』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月21日 (金)

世界って広いわ

連日レポートの提出やら試験やらで、
何だか考えていることのスケールがどんどん小さくなっています。

そんな時には、BSの「世界の天気予報」を見るに限ります。

フランスは明日晴れるとか。バングラデシュは曇るとか。
全く必要のない情報ではありますが、
あぁ、世界はつながっているなあ、地球は一つだなあということを思い出します。

今日はその勢いで外務省の海外安全ホームページを見ました。
新聞よりも断然、地域の情勢がいろいろと詳細なところまでわかります。実際にそこへ行くつもりで見ると、ニュースも他人事ではなくなってきます。

ああ…夏休み短いなあ。2ヶ月か。
8月は稼ぐ事に集中するとして、9月は飛行機に乗ってどこかへ行けるだろうか。
修学旅行以外で関東甲信越から外へ足を運んだ事がない、という状況を打開せねば。本州を脱出しなければ。
そもそも海外ってどうやって行くんだろう。ビザってどこで取るんだろう。ビザだけあれば行けるのか?
身近に海外経験のある人間が居ないので全くわかりません。

聞くところによると、ネパールは面白いらしい。
…バングラデシュの国会議事堂が見たい。
前々から行きたいと思っているアイルランド、メキシコ、モロッコの3つもあるし。
やっぱり英仏米とかも行った方がいいんだろうなあ…
こんな感じでどんどんリストアップしていくと、もう夏休みの短さどころでなく、人生の短さというものを痛感します。
ああ、世界って広い。


読んだ本:ジェローム・K・ジェローム 『ボートの三人男』
      (1日で読み終わってしまうのが惜しいので急遽中断)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年7月20日 (木)

枯渇

書けないなぁ。
レポートが。

半年の成果がこれか!と思うと、もう、情けなくて情けなくて、表へ出て土手まで走って土手を駆け上ってそのままゴロゴロと転げ落ちたくなります。
今日は突然学校へ行く予定が消えて、一日家に閉じこもってレポートが書いていたわけなのだけど。
これが相変わらず書けない。一向に書けない。さっっっっぱり書けない。書いても何が何だかわからない。一体自分が何を書いてるんだかわからない。推敲し出すと全部直したくなる。終わらない!ってか始め方から間違ったんだよきっと!

奮発して買ってきたハーゲンダッツを食べて脳に糖分をプレゼントしてもいっこうに働いてくれないし。
廊下ででんぐり返ししても状況は変わらないし。変わるはずがないし。
すぐそばでずっと寝ている猫のいびきがうるさいし。
こりゃあ、駄目だな。
明日提出なんだけどなぁ…提出できないなぁ…ってか提出したくないなぁ…

ご覧の通り、頭の中がだらけております。
ブログ書くのも億劫になったもんだ。


読んだ本: 木下長宏 『「名文」に学ぶ表現作法』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月19日 (水)

わからないからこその、決意


電車の中で大声で喋ってる人も、確かに迷惑だけれども、
それを指摘するでもなく、ただただその人を物凄い形相で睨みつけている、周りの人の存在っていうのが、私にとってはそちらの方が、どうも苦手。
何かね。「悪者」見つけた!みたいなカンジが苦手。
社会の諸悪の根源はお前だ!とも言いたげな、どことなく見下したようなその表情が苦手。
鬼の首を取ったように「悪者」仕立て上げて、相対的に自分を「被害者=正義」にしているようで。
理解に苦しむような傍若無人な態度の人っていうのも確かに嫌だ。だけどそれよりも、…何かな。…何か。それよりも、自分は正しい、っていう事に得意になっているようで、危ないなぁって。上手く言えないけど…。

似たような事を、ニュース見ていても思う。
確かに自分の子供殺すのはいけないし、理解出来ない。っていうか、理解したくない。でも、考え続ければ、どこかで理解、できてしまいそうで…。それが怖いのか、いつも途中で考えるのを止める。
止めて、あの人は悪い人だ、で片付けたい。
許されないような悪い事をしたけど、きっと本当に良い人であった事もあったんだろうな、って考えると、怖いじゃん。人を殺すような人は、髪の毛の先からつま先まで全部悪い要素しか無い人なんだ!っていうのじゃないと、怖いじゃん。そうでないと、「自分とは関係無い」ことに出来なくなるから。
怖いこと、理解できないことがあると、「自分とは関係無い」ことにしたい。
だからニュースは、物語を仕立てて、悪者をより凶悪に仕立てて、わかりもしない犯人の心情を勝手に推し量って、「自分とは関係無い」ことにしてくれる。
そうでないと、自分もいつか、同じ事をしてしまうかもしれない、という可能性にぶつかってしまう。
そしてやっぱりそれが本当なんだと思う。100%正しい人なんていないし、100%間違ってる人もいない。物事の多面的な側面が、どう転ぶか、という違いしか無い。究極の状態では、善悪の判断も吹っ飛んでしまうんだろう…。
そこのところを完全に忘れて、思考停止して、あの人は悪人だ、けしからん、しか思えないっていうのは、それこそ怖いよ。
犯人を擁護する気は無い。いわゆる心の闇、というものがあったとしても、あまり興味は無い。例えそうやって究極の状態に置かれたとしても、そこでは人として、何としても踏みとどまらなくてはならないと思う。
しかし、間違いを犯した人に対して、思考停止して、自分は関係無いと信じきっている「善意の人」というのが、どうも…違うんじゃないかなぁって。そして「世の中は酷くなったものだ!」とか嘆かれてもなぁ。

今だけの話ではない。ニュースを見れば、いつでも必ずどこかに「悪者」は居る。
ある意味、餌食だと思う。理解出来ない領域、理解したくない領域、そこから目を背ける為の、「悪者」という分かりやすい解答。「善良なる一般市民」に与えられる解答。
でもそこで分かった気になってはいけないと思う。本当は答えなんて無いよ。全く関係無いことでもないよ。
どうしてそうなってしまったのか、わからないし、状況によっては、自分が同じ事を絶対にしないという保証なんて無いから、
せめて、出来る限りは、いい人でいよう、穏やかでいよう、それしか出来ない、と。
さっきからいびきをかいて眠っている猫を見ながら、思った。


しかし本当にレポートが書けない。
周りの何かに触発されて、その反応としての言葉ならいくらでも出て来るけど、最初の問題設定から完全に自分の中から出すとなると…さっぱりだ。さっっっぱりだ。
今日のテスト(文章)も、勢いに任せた自動筆記状態。追いつめられて、土壇場で出て来る言葉っていうのは、意外と素晴らしいか、やっぱりとんでもないか、どちらか。分の悪い賭け。
あーもう。がんばれがんばれ。


読んだ本:ソシュール『言語学原論』 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月18日 (火)

研修終了!

警備員の研修に、文字通り明け暮れた3連休でした。
おかげで今日で無事卒業。今日からSPです。
SPって何か?セキュリティ・パトロールだそうです。何か違う!と思いますが、それで合ってます。やたら横文字を多用し、何かとアルファベットで略したがる社風。(差し出がましいのは承知の上で、頭悪そうだから止めた方がいいと心から思う。)
駐車場配備隊をPK隊っていうのは、まだわかるけれども。

極めつけは、KY。
はい問題。KYとは何の略でしょうか。
例文:互いに声を掛け合い、KYを徹底すること!
答えを聞いて、鼻で笑わないで下さい。

KY=Kiken Yochi

そうです。危険予知です。そしてKYTとは危険予知トレーニングの事です。
ギャグかと思ったけど、教官は真面目でした。至って真面目でした。
Nihon Housou Kyoukai みたいなものか。
でも、笑い事ではないです。危険予知は大事です。やっぱり何かと死にやすい仕事みたいです。あと、全然関係無い事故の責任を負わされてしまいやすい仕事みたいです。不条理な話を最終日に大量に聞かされてちょっと参りました。
しかしなぁ…KYは無いよな…KYじゃ危機感が無いよな…。危険予知って言えばいいじゃん!
市民権を得ている略称なんだろうか。

まあいいや。死なないように気をつけよう。ハマりすぎないように気をつけよう。正社員とかになってしまわないように気をつけよう。ドライに行こう。
得たいのは、まずはもちろん給料、そして反射神経、とっさの判断力、あと愛嬌?

色々な人に会っていく中で、ああ、いいなぁ、という姿と、これは違うなぁ、という姿と、どこが違うのか、が、いよいよはっきりしてきた。
いいなぁ、と思う人達が、何をしているかは一致しないし、皆が皆幸せそうなわけでもない。そういう外から見える基準から離れた所にある、私が惹かれる要素というものが…わかってきたように思う。

しかし、本当にレポートが…冗談じゃない状況になってきた。
明日も何かのテストがあったような気がする。来週にはイスパニア語のテスト…数学の事はもう諦めている。
大丈夫か?自分ラストでコケてないか?


読んだ本: 海をつくる会 『ハマの海づくり』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月17日 (月)

あくまで、サシ(one to one)。

研修3日目。
もう片交(片側交互通行)はバッチリだい。道路で工事する時は呼んでね!笑

今日はやたらと周りの人(やっぱり皆年配)と親交を深めた。波瀾万丈の半生を聞かせてもらったりした。
やっぱり行き着くのは「いやぁ若い人は未来があっていいですなぁ」だったけれど。
先の人生は何があるかわからない。その、何があるかわからないということを、希望と呼ぶらしい。妙に納得した。
年は取りたくないと昨日思ったばかりだったけれど、要は年の取り方なんだろうと思う。


帰りの電車の中で、あ、ミクシ(ィ)って結局何だったのだろうか、と思いついた。思い出した。

紹介してもらえないと入れないとかで、誰かの「仲間に入れてもらう」為の手続きを踏む事が極端に苦手な私はその時点で諦めていたのだが、今日ばかりは好奇心の勢いに任せて、入っていそうな友人に「私を誘え!」と強要した。
送られてきたメールから入って、自己紹介とか適当に打って、めでたく仲間入り。
と、思いきや。
友人のページ(?)とかを数分間見ているうちに、
何なんだこのぬるい共同体は!匂うぞ!匂うぞ!サークル臭いぞ!
という声が降ってきて、途端に、

内輪の中での友好関係→ぬるい→サークル的→そこで居心地よさを感じてしまう神経→狭い→……

…と、飛躍しやすい少年の思いさながらに、よからぬ連想が猛スピードで進行し、気付いたら退会の手続きを済ませていた。短命!!
今考えれば、一部だけ見てその反応はちょっといくら何でも幼稚過ぎるだろうと思う。

わかってるよ。つまり、仲間に入れてくれないからひがんでるんだろ。知らないところで何か進行してるのが嫌だったんだろ。きっと全ての孤立の原因はそこなんだよ自分。わっかりやすっ!

それだけじゃない、と反論したい気もする。
何も、一人を好むのはネット上だけの話ではない。
旅行にしろ、ライブにしろ、新しい環境に触れる時は、一人に限る。
一対一、サシの会話を好むという性質もあると思うけれど。
折角知らない人と知り合える場で、知らない人と会うべき場で、どうして、常に、知ってる誰かと一緒に居なければならないのか?何が悲しくて停滞していなければならないのか?「誰かと一緒に居る」という状態だけでどうして満足できるの?と思う。
(実際、私がそういう場に誰かと一緒に行っても、私が何処へでもひょいひょい行ってしまうので、かなりの高確率で連れの友人とはぐれる。はぐれても気にしないような方がたまに居て、物凄くありがたい。)
気心知れた友と出掛ける事は、そりゃ楽しいに決まっている。でも、そこでとどまっているのは勿体ない。
知らない人なんてまだまだ沢山要る。時間は全然無いのだ。出会いは急がなきゃ。

確かに、狭く深くの付き合いでいいっていう人も居るし、居ていい。そりゃ好みの問題なわけで、
しかし深くっつっても本当に深く知れたかなんてわからないし、人って変わるし。自分も変わるし。そもそも長く付き合っていたからって、それだけで深くなるものではない。
深くする為に長い時間一緒に居るって言うのは言い訳で、単に、一旦気心が知れるということが判明した相手に甘えているだけでしかないように思うのです。

だったら広げるしかない!広い、っていうのは信頼できる。
その瞬間瞬間で、全然知らない人に会って、全然知らない世界を知って、あっ全然知らない人なのに気が合うのは不思議だね!やっぱり人類皆兄弟だ!とか、そういう方が楽しいと、思う。私は。
それが浅いとは思わない。浅い付き合いになると直感すれば、始めっから付き合おうと思わないし。
広く深く!だから時間が無いの!


ミクシ(ィ)と全然関係無い話になってしまった。
あれは、本当は別に悪いシステムではない筈だ。きっとあの最初の内輪な感じを耐えれば、また少しずつ広がって来るよ、っていうものだったんだろうと思う。使い方次第なんだろうと思う。
友人の友人、っていうのがちょっとなぁ。中途半端というか。もう、完全に全く関係無い!っていう所に飛び込みたいけど。それだと方法が無いか…。やっぱり友人の友人っていうのが、一番手っ取り早いのかな。うーん。
…また入る事はこの先あるのだろうか。
ごめんね友人。貴方はちっとも悪くないです。

飲み会も、「友好を深める」手段として好きではないなぁ…集団だっていうのもあるし、…何か、それは、本心なのか?それとも、酔いが醒めたら忘れてしまうような話なのか?っていうのが気が気じゃない。こっちも酔えば楽しいけれど。
でも飲まないと喋れないっていう人も居るんだよな…。
難しい。
でも、やっぱりサシ&シラフに限るな。それが一番確かだ。
しかし全然飲んでないのに、「酔ってるねー」ってよく言われるのは何故だろう。常に酔ってるのか私は。

今、文章酔ってるように読めるかもしれませんが、完全にシラフです。念のため。


読んだ本:昨日と同じ(先が見えない!)

| | コメント (3)

2006年7月16日 (日)

若さと幼さ、そしてお見舞い

バイト研修2日目。
研修と言えど、全然堅苦しくなく、教官の気が向いた事をその都度教えてもらっている感じです。
なので講義内容が完全に以前のと被ったり、延々世間話だったり、…緩い。
今日は周りが年配の方々しか居らず、一層世間話がヒートアップしていたご様子。
延々続く「全く最近のモンは…云々」という話を聞いているうちに、次第に黙ってその場に座っている事が馬鹿馬鹿しくなってきた。
何?私がいたからか?それともこの年代の人が集まるといつもそういう話題になるものなのか?
これも仕事、これも仕事、と言い聞かせながら、座っていた。しかし目が据わっていなかっただろうか。

休み時間に、やたら卑屈なおじさんに「若い人は未来があって良いですなあ!!」と幾度と無く言われた。
健康診断で、おばちゃん達が「背が縮んでいた」と嘆いていた。
なんか、年を取るってなんだろうと思った。年は取りたくないなぁ、と思った。
羨まれる程の生活はしていないんだけどな。若いっていうだけで羨ましくなるものなのか。
っていうか、その若いっていうことを、余りに無意味に垂れ流してるよなぁ…そもそも若い、ということに対して、価値を認めていない。
私の場合は、若いっていうより、幼いんだ。


その後、例の交通事故に遭った友人のお見舞いへ行く。
同じ幼稚園から同じ小学校へ上がった友人達の中で、女子は私と彼女だけ。
しかしその後彼女が転校して、近場とはいえ学校が変わり、以来あまり会う機会も無く今日まで至る感じでした。
一体何年ぶりだろう!っていう程のご無沙汰だったのに、その再会の場がよりによって病院の個室。
しかも今は喉に直接吸入をしていて、全く喋れない状態だった。呼吸するのも大変そうだった。
しかし、この華奢な体の上を、2tトラックが走ったのだと思うと、本当に生きててよかった、と思った。彼女の生命力を讃えたい。凄いよ。

最初、痛々しくてこちらから声を掛けるのが憚られたのだけど、次第に再会の喜びが勝り、数年分の積もる話もあり。喋り始めたら調子に乗って、久しぶりに喋りが延々止まらない状況に陥った。気付いたら、1時間半近くずっと喋り通していた。(こうなると迷惑だったかも。)
でも、目が笑っていた。
よかった。

帰りに、久々にクリームソーダを食べた。


読んだ本:昨日と同じ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月15日 (土)

早起きしないと損をしそう(本日の後出し占い)

不運というか。ついてないというか。自業自得か。

発端は、寝坊した事から始まった。
今日まで上映していたデプレシャンの『二十歳の死』を観に行くつもりが、朝食を摂っていた時点で微妙に間に合わない事が発覚(放映は一日一回のみ)。
一気にやる気を無くし、家でごろごろと、文字通り畳の上を猫と一緒に転がっていた。
気付いたら寝ていた。
起きた瞬間、自分のしょうもなさに呆れ返り、髪の毛を掻きむしった。
猫も寝ていた。

そして結局いつも通りの、4限に間に合う時間の電車に乗るべく家を出る。
ちょっと急ぎ目に駅へ歩いて行ったところ、線路沿いが妙に静か。
嫌な予感。
的中。
というか私は油断していた。金曜は人身事故が多いという事を忘れていた。
電車がまるで来ない。1時間来ない。湘南新宿ラインはすぐ運休になる。
そして遅刻。結局授業は50分位しか受けていない。それだけのために行き帰り合わせて5時間の移動時間!

ちょっと何かしないと気が済まなかったが、今日は何をやっても駄目な気がして、おとなしく写真だけ撮って帰る。
全ては早く起きていれば、楽しい日を送れた筈だった。
ちゃんとイメージフォーラム(映画館)に行っていれば、あの無駄寝も、あの足止めも、あの遅刻も無かった。
とにかく規則正しい生活ですね。教訓。

全てが悪い流れに行く日があるからこそ、、その分全てがうまく回る日もあるというものです。
と、自分に言い聞かせる。

雑誌作るというので、もう一度『PLANTED』をじっくりと見る。
いざ作る側になろうとすると、見方も変わって来るものだなぁと思った。あの雑誌もきっとグリッドシステムを使っている筈だ。色の使い方も、補色を中心にちゃんと考えられて配置されているように感じた。
あとはやっぱり企画のセンス。
自由にやっているのに、全体としてまとまっているのは、軸がしっかりしているからだ。
ああ、どうしようかなぁと、改めて思った。

あと、帰宅したらテレビに戸田ボートコースが映っていてびっくりしたら、新しいドラマだった。
しかも第一艇庫(部室兼艇庫)が乗っ取られていました。主人公の大学の艇庫になっていた…笑った。
変な気持ちで、夕食食べながらテレビを眺めていました。
そういえば、大学入ってから、とんとドラマを見ていない。

明日は早く起きる。


読んだ本:ソシュール『言語学原論』
   (やっと序章が読み終わった段階、しかもさっぱりわからない!)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日が沈む+α


一昨日の日没from横浜市立中央図書館5階の階段。
窓ガラスに反射した室内の灯りが映り込んで、月もどきになった。
夕日の位置に対して、この位置だと配置的にあり得ないが。

これはそうでもないけれど、最近、夕日の雲の染めっぷりが良いですね。
結構遠くの雲まで紅かったりしますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月14日 (金)

始動

どんなに凹もうと、一晩寝る事ができれば、大抵治まります。余りに酷いと眠れないけれど、昨夜は幸いにも眠れました。
しかし…
食生活の乱れ+睡眠不足+冷え
ああ、不健康極まりない。

本当に、クーラーが効いた部屋や電車から外へ一歩踏み出したときの生暖かさは、私にとっては安息です。
すぐに暑さにも困るようになるのだけれど、あの一瞬は本当に安心する。ああ、温度だわ、と思う。
冷えで腰が痛くなってきた。久しぶりに針に行きたいなぁ。

今週はイラレで色の事ばっかりやっているせいか、パソコンを離れても、普段で目にするものの色彩に注意するようになっています。この色の補色は何だろうとか、このコントラストはどうだろうとか、色々。
力はついていると思いたい。
放課後に映画へ行くつもりが、地下鉄の定期を買ってお金が無くなり、延期。大学でイラレやる分にはお金がかかりませんので。今日は12色環を完成させて、次にまた新しいものを作ってみました。目が疲れた…。
力はついていると思いたい。

今日会ったばかりの人と、雑誌を作ることになりました。
どんな雑誌にするのかも、作り方も、全くわからない状況ですが、必要に迫られれば向上する作戦で頑張ります。夏休み中に1号を発行、今月中に企画書完成という目標。
考えている間にどんどん時間は過ぎて行ってしまうから、とにかく飛び込む。飛び込む先を選んでいる時間も無いので見つけ次第飛び込む。飛び込んだ先でまた考える。考え方もまた変わっていくかもしれない。
ということは、結構前から思っていたのだけれど、結局実践するのは今になってしまった。
とにかく、頑張ろう。


読んだ本:
    ソシュール 『言語学原論』
    森山大道、荒木経惟 『森山・新宿・荒木』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月13日 (木)

弱気

それまでの自分というものを、ことごとく打ち崩して、かき回していった水曜の授業が、共に終わってしまった。終わってしまえばあっけないものだ。
まだレポートが残っているのだが…まだ今までに得たものを消化できていないし、消化どころか全てを呑み込めてもいないので、アウトプット出来る段階にない。難儀だ。

担任に部屋の鍵を返しに研究室を訪れたところ、中に同じ組の友人が数人居り、私も輪に入った。映画に行くので早く退散するつもりが、居座ってしまった。
したのは他愛のない話ばかりだったけれども、凹んだ。
「面白い事」をしようとしているのは皆同じなのだ。しかし、どこかへ、えいやっと飛び込んで行く思い切りのよさが無い。リスクを避けて、結局”小市民的”な生活を緩やかに送っている。私も同じだ。

いや、違う。
同じだ、と言っているけれども、本当は同じではないのだ。彼らと私は同じではない。

性別が違う。
性差というものを、通常深刻に気にする場面は無いけれど、たまに考えを巡らせて、とても不安になる事がある。
映画監督とか、写真家とか、私が触れる芸術家作家哲学者、男ばっかりだ。私の選択が偏っているのか?そうとも思えない。
当然といえば当然だ。つい最近までは、と言うか今でも、おおよそ世界は家父長制、男社会だ。それが良いとか悪いとか言いたいわけではない。事実として、の話だ。
何か古典の哲学書を読むとする。頭のどこかで、これが書かれた時代、作者はきっと女がこれを読む事を想定していなかったのだろうな、と思う。女が学問を出来るようになったのは本当に最近の話だ。
これは少々考え過ぎかとは思う。しかし一度疑心暗鬼になると、全てそういう風に見えてしまう。卑屈であることはわかっているけれど。

また、「女が一つの事を極めるのは不可能である」というような話はどこでも聞く。
女性の脳は一度にいろいろな事が出来るけれど、男の脳はそうはいかない。男は一つの事しか出来ない。だからある特定の分野で成果を上げるのは男性が多い、と。
中学の時の体育教師が長距離走の時に言っていた、「女はどんなに体力の限界まで出しているつもりでも、必ずいつでも3割の体力は使わず温存するように体が出来ている。男は全力を出し切ると本当にぶっ倒れるが、女が本当の意味で全力を出し切る事は無いから安心して走りなさい」というような内容の話も、嫌な後味で残っている。
真偽はどうだかわからないが、いずれにせよ「男は弱い生き物だ」という言葉の裏に、「何かを極める事は、男にこそ向いている」という意味が透けて見えて、鬱陶しい。

そういう風にできているんだよ、
向いていないんだよ、
と言われているようで悔しい。でも悔しがったところで脳科学なんて持ち出されたら私は反論できない。「科学的に立証されています」だなんて!

そんな中、親はせっせと私を「女らしく」しようと躍起だ。
化粧をしなさい、クセ毛の髪の毛に縮毛矯正をかけなさい、妙な服を着るのはやめなさい、ふらふらするのはやめなさい、等々。そしてこう付け加える「男の子じゃないんだから」。
「向いていない」方向へ、どこか勘違いしたままふらふら向かっている娘の事を、心配してくれているというのはよくわかる。でも、今はただひたすらに鬱陶しい。

考えれば考える程、凹むような事例はどんどん出て来る。ここまで来ると脅迫観念だ。将来の事を考える際に、女であるということは、今の時点では私にとっては確実にマイナス。出来れば考えたくない。でも無視は出来ないのかもしれない。
何かそれっぽい内容になってしまったが、ジェンダーについてはよくわからない。仮にいわゆる男女平等、が達成されたとしても、この私の不安というものが消えるとは思えない。
そういう事を一番気にしてこだわっているのは自分なんじゃないかという思いと、でもやはり無理があるのではないかという思いと、性別を言い訳にするのかよという思いと、でも結局末路は見えているのではないかという思いと、いろいろごっちゃになっている。

何故か知らないが今日は殊更こういう事を考えてしまった。
しかしもうこればっかりは考えたってどうしようも無いので、卑屈にならずにやるしか無いのです。うまいこと立ち回るしか無いのです。


で、映画。アンリ・カルティエ=ブレッソンについての。
写真がいいっていうのも勿論思った。そして、やはり力が要る、と思った。

外界に対していかに注意深く目を向けるか(嗅覚)
いかに被写体の内部を見抜くか(観察力)
そしてそれをいかに効果的に写すか(技術)

写真を撮るという、反射神経がモノを言う瞬間の勝負の中では、きっといちいち構図とか色彩とか考えてなんかいられないだろう。でも、凄い写真には必ず凄い構図が有り、凄い陰影、色彩が有る。
それでは、反射神経下でも構図や色彩を捕らえた写真を撮るには、そういった感覚を体にしみ込ませるしかないのではないか。考えるのではなく、感覚的に「わかる」ようにならないといけない。それには勉強しかない。
天賦の才とか、インスピレーションとか、そういうものを理由にして自分から遠ざけて、凄かったね、それで終わりにしていたのでは、折角良い作品に出会った意味が無い。
無勉強のまま、どんどん撮るべき瞬間というものは通り過ぎていってしまう。


弱気。嫌ーな感じの弱気。
冷え性も本格化してきたし。嫌な雰囲気だ。


読んだ本:中島らも『ガダラの豚 2』
観た映画:ハインツ・バトラー 『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年7月12日 (水)

ノックアウト

何だかメンテナンスでブログ使えないのは有料の方の話だった様子。ごめんなさい。
まだいまいちシステムがわかっていない。使い方も、もっと色々出来る筈なのだけど。

しかし今日のクーラーは酷だった…3コマ連続で低温+風直撃。やられました。摩擦熱で何とか生き延びました。
もっと席選びとか対策をせねば本当に体を壊す。

また横浜市立図書館に行って、限度まで本を借りて来る。
今日は書庫からも出してもらったりして、本を選ぶ時の楽しさといったら無いのだけど、貸し出し手続きを経て、いざ全部抱えてみると(勿論バッグに入る筈も無く)、写真集を含めて大きい本ばかりだったのでかさばるし重いしで、帰りが大変だった。

しかもレポートの参考にと思って借りてきた本(『ソシュール言語學言論』)、旧かな遣い&漢字が旧字体。余計読むのに時間がかかる予感。そして思った通り、帰りの電車の中で数ページ目を通して挫折。
書庫から出してもらった時によく確認しなかった…仕方無い。腹を据えていこう。
でも、旧仮名遣いの時代には、もう既にこういう考えは伝わっていたんだなぁと改めて思った。凄く新しい考えかと思っていたので尚更ギャップを感じた。
しかし、私が今まで知らなかっただけのこと。

改めて、折角今までの凄い人達が一生かけて編み出してきた考えを知ろうとせずに、「自分が」「自分で」何か新しい事でもしようとか考えていた事が、いかに無謀だったかと思う。
それでは新しい境地へ行ける筈が無い。「自力で」頑張ったつもりが、過去の人達がとっくの昔にしていた事を繰り返していただけだった、っていう事も大いにありうる。と言うかほぼそうやって終わりそうだ。
今まで、先達が何を考えて、説いてきたのか。それを知らなければ、「今」を生きている事にはならないのではないかと思う。
現に、私は旧仮名遣いの時代の言語学すらろくにわかっていなかったわけだ。
新しいことなんて、軽く口に出来る事じゃない。
もう本当に、どこを向いても知らなかったことだらけ。そして知らない領域がまだまだ延々と。
これ大学4年間だけではどう考えても消化しきるなんで出来ないな。それどころか、一生かかっても…どうだろう。

色々な意味で、ノックアウト。


読んだ本:
    佐内正史 『俺の車』『鉄火』
    梶井基次郎『檸檬』
    中島らも『ガダラの豚 2』
    
   

| | コメント (0)

2006年7月11日 (火)

真仮偽

色々考える。考えなくていいような事も考える。
考えていい分際なのかわからなくても考える。


昼休み、12色環をいじっていたら隣の部屋から3年生に呼ばれた。

スクリーンや音響装置を備えている大学内の一室の、より良い運営についての会議。
飛び入りで加わって、印象を尋ねられ、一言二言思った事を述べる。
だいたい問題はこんな感じだと思う。
放課後に映画とかサッカー観戦とかを企画して実行していたのだけど、これがなかなか1年生が来ない。2年生以上にしても特定の人しか来ない。
人が来ないと企画を考える側のやる気も下がるし、元々人が来ないとわかっていながら企画持ち込む人も居ないし、部屋の管理も大変だし、という話だった。
しかし何もしなければ益々存在を忘れられてしまう。いっそ自由開放にしてしまおうか、という話もあった。
(ってかこんな事を部外者の私が書いていいんだろうかと思う。駄目な気がするけども。)
現在の運営体系については全くわからないので管理の大変さについては何も言えないが、何だか完全に悪循環だなぁと思った。危機感が空回って無力感…というか。

でも、人を集めるっていうのは、本当に難しい。
自分の行動を決める。それぞれの決定は何気ないものなのだろうけど、その決定に対して、外からの影響というのは結構非力だと思う。どんなにPRしてもたいていは、本人の「なんとなく」の判断に勝てない。ましてやこちらに全く興味を持っていないゼロの状態の人をその気にさせるのは大変だ。
本当に暇で暇で仕方無いような人だって、必ず来てくれるとは限らない。いや、暇で暇で仕方無いような人は、それだけ面白い事に飢えているだろうから、それだけ、面白いかどうかの判断も一層シビアになるかもしれない。サークルやバイトの予定が入っている人も、当然自分の予定を優先させるだろう。
いずれにせよ未知の領域に足を踏み入れる選択はなかなかしてもらえない。実際私もしにくい。

そういう予定とか、「なんとなく」のフィーリング的な選択に打ち勝たないと、人は来てくれないんだよなぁ。
今まで、友人を誘っての動物園案内企画を何度かやっている経験上私もよくわかる。
面白い事をやっていれば、自然と人は来ると思うのだけど。そう簡単に面白い事はできないようで。

というかそもそも何の為の部屋なのか、何の為のチームなのかが私はよくわかっていない。
ただ楽しもう、っていう場なんだったら、別に楽しむ場は他にもある。楽しむだけならば、映画にしたって何にしたって、都会へ出たほうが楽しめる。
ただの緩いサークル的繋がりの共同体であるなら、閉鎖的にだってなるだろうし、元々何らかのサークルに属しているような人があえてその中に加わってくるとは考えにくい。

何となく、映画好きなら映画好き、ロック好きならロック好き、で固まっているのが今のうちの学年のように思う(自分のカテゴライズすら出来ずにはぐれている私に言われたくないだろうなとも思う)。その「同趣味」の境を、壊して行く場になれば面白いと思う。折角面白い人が揃っている(イメージ)んだから。
何か、人を集めるには、現在分断しているサークル(サークルそのままの意味としても、また友人の内輪のつながりっていう意味としても)をつなげる場になるなら、その前に自分達がサークルになってちゃ駄目だと思う。「自分達」という認識がある時点で駄目なのかもしれない。全部取り込んで「自分達」に入れてしまう勢い、と言おうか?

あの部屋と、図書館のメディアブースで何が違うかって言ったら、人が、しかも知らない人が居るか居ないか、という違いしか、思いつかない。メディアブースは個人か、仲間内でしか利用しない。
でもあの部屋ならば、誰にでも開かれている筈なんだから、自分と違う趣味の人と話したりできる、私はそれが魅力だと思う。この際何を放映するかとか、そういうのも大事かもしれないけれど、居る人っていうのを…もっと有効に使えないかな(…と、何も知らないので好き勝手考えてみる)。
私なんかはまだ映画の古典とかさっぱりわからないから、そういうの詳しい人が一人でも居て、教えてくれるんだったら教えて欲しいと思う。別に正しくなくていい。いろいろな人のお勧めを聞く事に意義があると思う。広げる作業。きっかけ作業。

仮にそうした場になって、それでも違う趣味の人は相手にしない、教えてもわからないだろうから教えないし、興味の無い事なんてどうせ聞いてもわからないから聞きたくない、っていうのなら、それはその考え方が間違っていると思う。閉鎖的で、話の通じる「自分達」だけで閉じこもっていたのでは、やる事だってたかが知れてる。外部とか他者に発信していく気も無いのに、メディアとか。何言ってるのっていう話だと思う。
ただ楽しみたいだけなら、…そりゃ、仲間内の方がやりやすいだろうけど。もっと志は高い筈だ。

何か偉そうに書いたけれど、たまたま私が違う趣味とか違う立場の人と喋る事を面白いと考えるから、こういう考えになっただけなのかもしれない。
でも、面白い事やるしか無いんだと思う。知られていない、っていう状況もあるかもしれないけれど、近付き難かったり、あんなの面白くないよって言われたりするのは、やっぱり今までしていた事に対してそういう現実があるんだと思う。だから皆焦ってた(多分)んだと思う。
結局昼休みの段階ではまとまらなかったからどうなるかわからないけれど、管理放棄っていう事になったら残念だ。


っていう事を延々考えたり。
あと今日は、森達也さんの講演を聞きに行った。
ドキュメンタリーの短編映画を2本見て、あとは話。質疑応答。
何か周囲の人が熱心で、そういう中にあると冷めるという性質がまたも浮上したが、いつもと違う視点の話を聞くのはやっぱり楽しい。
この前メディアが結構大騒ぎしていた北朝鮮のミサイル、実弾は入っていないし着弾したのは公海上だから、国際法上は何ら問題無い実験だったっていうのは、知らなかった。

あと、メディアリテラシーという言葉を久しぶりに聞いた。
つまり視点を変えてみるということだという。
報道は中立だとか、制作者の主観を入れてはいけないとか、そういうのは幻想であり、全てのメディアには制作者の主観が入っている。そしてそれで良いことだ。
悪いのは制作者が、その個人のものに過ぎない一つの視点を一般化して「中立・客観」にしてしまうこと。
そしてその視点によって作られた作品を、視聴者が「中立・普遍的なもの」として受け取ってしまうこと。

気持ちのゆとりが無く、漠然とした不安の中、「わかりやすい」ものを求め、「敵」を作りたがる。
そういう心理があるという怖さ、そしてそれを「中立」の形で助長するメディアの怖さ。
これは、「正常で善良な我々」と「異常で凶悪な彼ら」を完全に分けたがる昨今の傾向(きっかけはオウム事件なんだそうだ)ともつながる。
安心させる事を言うと数字(部数・視聴率)が下がり、危機感を煽ると上がるという例もあがった。
安心しているのが不安…不安を作って、その不安の原因たる「敵」を常に設定していないと、相対的に「正義」である「我々」という図式が崩れてしまうという不安。屈折しているけれど、そういうものらしい。
そしてそういう不安を煽る力を、メディアは充分に持っている。

でも一番思ったのは、そうやって、「メディア駄目だねぇー、騙される人駄目だねぇー」と思っている私もまた、「知っている私」と「知らない誰か」を分けている、ということ。
知っているだけで、ふふん私は騙されてないよ、とある意味での優越感?に浸れる。おかしい方向へ流れてるのは、私の所為じゃない、少なくとも私はその流れに乗ってはいない、って。でも実際は何も出来ていないわけだ。自分は知ってるぜ、ってだけで満足して、少数者である事もちょっと誇って。
悪いのは他の人、私は悪くない。っていう、結局自分も単純な二項対立に陥っている。それバカだねーと思う。

知っている、知ってしまったっていうことの重みというものを思う。
知った事を自己満足のうちに留めてしまうことの愚かさを思う。
知った事を鵜呑みにせず、常に、吟味していくことの大切さを思う。

知ってるのに、知らない人と何ら変わりないような行動をしておいて、「本当はわかってたんだ」っていう自己弁護をする、それが一番駄目だ。知らないよりずっと駄目だ。


今日も長々と。
あ、明日からメンテナンスか何かでブログ2日間書けなくなるみたいなので、しばしさようなら。


読んだ本:中島らも 『ガダラの豚 1』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月10日 (月)

労働と日々

通帳を開くと、残高が物凄い勢いで減少していく過程がありありと見えて痛々しいです。
労働しないことには金銭は得られないので、定期的なバイトを足そうと思ったのです。
警備員。
ずっとやってみたかった労働、清掃員or警備員。
両方「他に無いの?」「そんなの女の子のやる仕事じゃない!」と両親はもとより友人にまで説得されましたが、やります。やっぱりある程度体を動かす、屋外の仕事がしたかった。清掃があんまり無かったので警備の方。…隠してるけど。

というわけで今日は一日中研修。
研修のスローガンが余りにわかりやすくて笑えた。
「自分を磨き ファンをつくり 収入を増やそう」
ファンって…

声出しとか交通整理の練習とか、実技系が楽しかった。
でも現場行ったらテンパるんだろうなぁ。
どうやら、
体力+反射神経+判断力+愛想の良さ
が要るようです。「顔の怖さ」は要らないようです。
「模範警備員」みたいな人が、駐車場の車さばきをしている様を延々ビデオ撮影したものを見た。
素早くて的確で愛想が良くて、立ち居振る舞いがとことん優雅だった。指先まで神経通ってたなあ。
さながら指揮者。司令塔。
あの人ならファンもつくだろう、と納得。

しかし、肉体労働の楽しさに溺れないようにしたいものです。
充実、して、おまけにお金までもらえてしまうんだから、尚、ハマると危ない。
そちらが本業になってしまうのは、そりゃ嫌だ。
あと、車に轢かれたり犯人に撃たれたり刺されたりして死ぬのは、嫌なので気をつけます。友達が2tトラックに轢かれたばかり(もう元気みたいです)ということもあり。
今、「だからあの時やめなって言ったのに!」と、私の墓前で家族や友人が話している、という様子を想像して、動揺しました。
命あっての物種。

しかし何やってるんだろうな私は。何かを巧みに避けている。


今日は読書無し。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 9日 (日)

いかに遊ぶか

ここのところ、土日に出掛けるのが億劫になっている。
世間は休日、動物園も都会も何処も人が多い、単に多いだけなら良いのだ。
その人達が、平日はきちんと働いて、よし、今週も頑張ったから休日は遊ぶぞ!という人達に見えてしまったが最後、私のような、常に遊びと勉強の境界が完全に融解している者はもう、後ろめたくて仕方が無い。
みんながみんなそういう人ではないという事は、わかっているのだけど…
そこがまだ甘いところだと思う。小心者なところだと思う。もう、そんな事は気にせず、大手を振って遊んでしまえ!と思う。

しかし本当の意味で遊ぶというのは大変だ。
日常がだらけていると、息抜きとか娯楽とか、そういうのはもはや遊びではなくなってくる。いつも息抜きのような状況なのに、これ以上息抜きしてどうする!という話だ。
真の遊びは休息ではない。遊びこそ戦いだ。自分で時間の過ごし方を決められるという状況の中で、いかにして自力で、誰よりもその時間を楽しむか、の戦いだ。
何を言っているのかよくわからなくなってきたが、本当に何もする事が無い時には、右手を頭の後ろに廻して左側から自分の鼻をつまんで遊ぶ(左手でも可)、とかいう術を編み出した江戸時代の人のようになれ!、という、とにかくそういうことだ。(?)

しかし朝から、借りてきたDVDを返した後すぐ帰ってきて、今日はレポートを全て書き上げてしまおう、と意気込んでいた。その時点では遊ぶ気ゼロ。真面目だった。
だが。ワードを立ち上げてから数十分経過、やる気が全く起きない!期限ギリギリになるまで追い込まれないと腰が上がらないという性質が災いした。いや、結構ギリギリな筈なのだけれど。
結果、本を読む以外何もできず、レポートも書けず、どちらも中途半端になるという最悪な状態で一日を終える。
自分がいまいましい。
いまいましい、というのはまさにこういう感じだったな、と呑気に考えてしまうところが、またいまいましい。


読んだ本: 永江朗 『不良のための読書術』

| | コメント (0)

2006年7月 8日 (土)

また金曜日終了

行きの電車の窓から怪しい色をした雲を見て、これは雨が降るに違いない!と確信したが、降らなかった。勘が鈍ってきたようだ。
また相変わらず地味にインドア生活。今日は12色環を作った。
しかしまぁ運動不足も甚だしい!だのに何故か太腿の裏が筋肉痛。あと腰痛。
近頃、「退屈」の基準がどんどん緩くなっている気がする。良くも悪くも。これも慣れか。
でも去年までの忙しさという「充実」は、外からの流れに乗っていただけのまやかしだった気もする。

いつもの部屋(4階)から日が沈むのを見届けてから帰途につくと、大体地元に着くのは9時頃になる。
駅から歩いている途中、車の中で電気を付けて地図を広げて、色々向きを変えながらずっと見ている夫婦が居た。
これは夫婦揃って余程の地図好きか、迷子か、どちらかである。
そしてこんな時間にこんな細い道で地図を見ているとなると、迷子の確率が断然高い。
不意にお節介な性分が浮上して、運転席の窓を叩いた。やはり迷子(子?)だった。
お礼と共に差し出された地図を見て、私は忘れていた現実をまざまざと思い出した。
私は地図の読めない方向音痴!
地元の人間であると名乗った以上は、何らかの有益な情報を提供しなければ、と使命感に駆られるも、私には地図に記された近くの公園と神社からおよその当たりを付ける程度の事が限界だった。
教えられたのは、ここから近いということと、あっちの方ですということ。アバウトすぎる。
ちゃんと着いただろうか。心配だ。

通学を始めた当初は、片道2時間というこの電車の時間が苦痛でたまらなかったが(これを4年間続けると、4年間のうち8ヶ月もの間じゅう電車に乗っていることになる、という友人の計算により更に憂鬱になった)、近頃は行き帰りで大概の本ならば一冊読み終わるという事がわかり、まぁこれも悪くないかなと思うようになった。
前向きというか、妥協というか。
…前向きな考えというのは、つまりは言い訳だなと思う。

あと、現在誰かと対立している、という事実よりも、この先も和解することは無いだろう、という予測の方が、より悲しいんだよなと思った。


読んだ本:町田康 『へらへらぼっちゃん』

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年7月 7日 (金)

誰に向かってモノ言ってるのか

こんばんは。

思えば全くの思いつきで始めたブログですが、ご覧の通り毎日続いて今日まで至っています。よほど暇で体力が有り余っているということだと思います。
相変わらず自ら誰かにアドレスを教えるということを渋っているので、一部を除いて一体何方が読んで下さっているのか全く分からないのですが、いつもありがとうございます。しかし何処から知ったのか、昨日思わぬ所から「ブログやってるんだって?」と尋ねられ、こりゃつくづく油断ならないなぁと思ったばかりです。

毎日思うのですが、このブログはカテゴライズがめちゃくちゃです。そもそもカテゴリーからして曖昧。
また「雑談」というカテゴリーが増えました。「雑記」とどう違うのか聞かれると、さあ…どう違うんでしょう。
映画なら映画、動物園なら動物園、日記なら日記、と分別できたらいいのですけど。読む方としても、見た映画の感想にもれなくその日の弱音が付いて来るというのは、甚だ苦痛なのではないかと推察します。ニーズに合ってなくてすみません。しかし最初からニーズがあるとは思っていないので、まあ、いいかなと。
あと文字が多いとか。改行が少なくて読みづらいとか。

わかってるなら
改めろよ!

とも思うのですが、これがなかなか。

尚、これは果たして書くに値することなのか?という内容の日も多々ありますが、それを考えだすと何も書けなくなってしまうので、寛恕戴きたいと思います。この通り好き勝手やってますが、仲間内だけしかわからないようなことを書くとか、その日の行動に対する言い訳を延々述べるとか、そういうブログだけは書くまいと、それだけは課しています。
本当、一体自分はいつも誰に向かってモノを言っているのかと思うと、緊張するものがあります。ふんどし締め直して頑張ります。

それでは、また。


追記:たまにコメント等頂けたら嬉しいです。

| | トラックバック (0)

アリと親しむ

今日取ったノートの日付が、見たら全て6月6日になっていました。私は大丈夫なのでしょうか。

今読んでる本にも影響されているのだろうけど、常にそこはかとない淋しさがあります。
今日などは孤独極まったのか、目に映る小さな生き物達への愛おしさが止まりません。
アリとか。ミミズとかトカゲとか。
講義中、左手に乗ってきて、机上へ戻して、あぁ歩いていったなぁと思っていたら、また暫くしてレポート用紙の上へ戻ってきたアリがいたのです。
なにおまえまた来たの〜と、温かな気持ちでよくよく見ると、サイズといい、触覚と脚の先がほんの少し茶色いところといい、これはあの5月の雨の日に上野から横浜まで一緒に登校したアリにそっくりじゃないか!とふと思ったらもう、そうとしか考えられなくなってしまい、一方的に旧闊を叙しました。
そういえば、前見た映画で、「本当に孤独な人間はアリの幻覚を見る」という場面がありました。
…幻覚でなかったことを祈るばかりです。

これで、帰りの電車に乗って来る塾帰りの小学生の集団はどうしても好きになれないのだから不思議です。小さければいいってものでもないようだ。

自分は何もしていないという事を嘆いてばかりで相変わらず進歩が無いというのも、いい加減馬鹿馬鹿しい。
グリッドシステム応用した写真集を作ろうかという計画を立てて、まずデジカメに入っていた高校の時の写真を使ってレイアウトの練習をしているのですが。これがなかなかうまくいかない。
その上、何枚も昔の写真を切り取ったり貼付けたり配置を変えたりしていると、いかにも自分が過去に取り付かれた人間のようで、次第に淋しさに浸されていきました。
そもそも、今までの写真は生温いよ!記念写真に過ぎないよ!と反省した矢先に、まさにそれらの決別したい写真をいじっているってのはどうなんだ?と思います。
でも最近デジカメで撮っていない。アナログ(アナログって呼ぶのか?)の方は現像したものをまたスキャナ使って取りこまなければならないし。…面倒臭がらずやればいいのか。
どうやら、まずどういうものを作るのか、ビジョンというものを決める必要があるようです。自分はやる事為す事全て行き当たりばったりだからいけない。
ビジョン…ビジョンかどうかはわからないけれど、森山大道の、あのぞっとするような写真っていうのは、見ていて落ち着かない。うろたえる。一体どうしたことだろう!と思います。凄い。ああいうものを、写真、と呼びたい。
とりあえず、綺麗なものやかわいいものばかりを追おうとする姿勢は捨てて、ロモと歩いて行こうと思います。


読んだ本:梶井基次郎 『檸檬』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 6日 (木)

普遍の思いなんてもう

雨らしい雨が一日中続いた。
しとしと降る雨よりこういう雨らしい雨の方が好きだ。濡れ方としても、霧雨にさらされて少しずつ湿っていくより潔いじゃない?

普遍的なものなんていうのは、もう無いみたいだ。
あんまり無いから探そうとしていたのだけど、もう無いんです、無くなっちゃったんです、って。

自分の考えていることは全ての人に普遍的な筈だ!と決めつけて他人に押し付ける方がより危険だとは思う。
だけど、普遍の不在によって、はぐれてしまった感はある。不安になって、宗教に走る人の気持ちも何か分かるわ(しかし今まで何が普遍的とされていたのかがいまいちわからない。頑張れば報われる!、未来は明るい!みたいな感じか?)。

みんな一緒、っていうの、安心するしね。同じ基盤に乗っていて、ある程度の同じ知識を共有している。そこはみんな一緒っていう価値観があったから、対話する気も起きたわけで。
でもいろいろな事件とかでどんどん崩れてきて、もう、諦めだもんな。

そりゃあ、そもそも普遍神話は崩れたのだろうけれど、それ以上に、つながる要因を否定し過ぎている気がする。意図的に。何か異質なものに出遭ってしまって、これは私と違う、って嗅ぎ付けたが最後、その不安を完全に自分と関係無い存在にしたいが為に、異質なものを「関係無いもの」として仕立て上げる。
その後は、”あの人達”には何を言っても通じないのだ、という、思い込み。そして、通じさせる為の言葉による手段も放棄して、一方的な誹謗中傷と自己弁護。溝は広がるばかり。
「私たち」と、「それ以外」を完全に分けてしまって、他者を極力排除して、仲間内だけで楽しくやる。考え方の違う人なんてそもそも相手にする気は無いんだから、「みんな一緒」の状態が(幻想でも)いくらでも作り出せる。「私たち」だけの世界。そりゃ楽しいよ。
でもそれじゃ駄目だって!狭いって。楽しい、って書いたけど、それはラクなだけであって、本当に楽しいか?
それに、狭くてもいいって開き直られると、広くしよう、それでも同じ所を探そうとする側が、一層やりにくくなってしまう。

これが全ての人に普遍的な事だ!なんて事はもう無いのかもしれないけれど、それでも、全く見知らぬ誰かとどこかで重なる部分があるんじゃないか?って思わなければ。思えなければ。広がるものも広がらない。
そしてそういう部分を見つけて行くことが、壊れた普遍性の後に残された唯一の希望なんじゃないかって。すごく大変なことだけど。想像力について思うよ。
…こういう事を考えるのは眠いからなんだろうけど。


今日少し用事があって母校を訪問した。
ああ、此処はもう完全に私の居場所では無いな、と感じて、少し寂しかったり、どこかで嬉しかったり。

やりたい事ができないとか、話したい事が話せないとか、そういうもどかしさはさておき、その何もしない状態、何も喋らない状態に押し留めているのは、自分以外の何者でも無いっていうのは、これこそ、どうしようね。


読んだ本: 梶井基次郎 『檸檬』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 5日 (水)

反省会

この頃何だかわからないけど楽しいんだ。周りの友達に「今日はご機嫌だね」とか言われる位。

でもそういう楽しい時にどこかで感じる、この違和感は何か?と思う。そして考える。
きっと、「これで楽しさという満足を感じてしまっている自分」というものが、何かとてつもなく愚かな気がして、そこから焦りが来るんだ。焦り、もう無くなっちゃったかと思ってたけど、あったな。まだ。
今で満足なんて。これで足りるなんて。とんでもない。
でも慣れている。前よりもずっと慣れてきている。何か真に足る事を始めたわけでもないのに、知らない事はどんどん広がって行くのに、慣れだけは確実に進行している。慣れた先に何があるのかは考えたくない。考えたくないから何か適当な楽しみを見つけてそれで無理矢理満足しちゃってさ。見なくちゃいけないところから目を逸らしておきながら、楽しい、だなんてよく思えるね!!

馴れ合い。緩やかな共同体。そういうものから得る安心はもういらないし、私は其処に居るべきではない。
勿論友達は要るよ。確かに一人じゃ不安だよ。味方が欲しいよ。
でも、どんな自分だろうが無条件で味方になってくれるような友達、有り難いけれども、それで本当に強くなれるか?甘えと錯覚しか生じないんじゃないか?まやかしの安心程、怖いものは無い。
初対面の人達や、いつでも味方で居てくれるとは限らない、バカな事すればすぐに見放されるような、油断ならない人達を、いかにして味方につけるか、そっちの方を頑張らなくちゃ駄目だと思う。
こう、味方っていう単語を連発したけど、ここで言う味方っていうのは何だろうな…敵の反意語でもないんだよな。敵ならまだいい。反意語はむしろ、自分に無関心な人(これが一番淋しい)。

常に苦しんでいろ、とは言わないけれども、楽しんで一向に構わないんだけど、それが本当に楽しいのか、問う事を止めてしまったら、もうそれまでだ。という事を忘れてしまったら、もうそれっきりだ。


読んだ本:枡野浩一 『君の鳥は歌を歌える』 
観たDVD:ビクトル・エリセ 『エル・スール』


| | トラックバック (0)

2006年7月 4日 (火)

avant

↑今日調べた単語。覚えたい単語。常に忘れないでいたい単語。いつでも実践していたい単語。
時代の先端。前衛。常に新しいこと。「アバンギャルド」の「アバン」ですね。
前衛なんて言うと何だか腰が引けてしまうけれども、頑張って付いて行って一緒にいたいような。辞書で引いた時、そういう印象を持った。
それと意味は変わってしまうけれども、この今の、一秒一秒の自分が、生まれてからずっと生き続けてきた自分の最先端なんだと思うと、こりゃあ、うかうかしてられないなぁと。身が引き締まる。


また例の雑誌探しに今日は渋谷行きました。タワレコの7階でちゃんと見つかったので一安心。
折角なのでいろいろな海外の雑誌を立ち読みした。
CRASHっていう(違うかも)フランスかどこかのファッション雑誌がカッコ良かった…うーんカッコ良かったって言うと安っぽい感じがしてしまって失礼だな。
何かこう、見ていて思わず、自分も美しくならなければ!!と真剣に考えてしまうような。実際考え込みました。

その他でも、芸術系の雑誌とか、やはりグリッドシステムを取り入れていると思しき雑誌は沢山あった。
センスの良さそうな雑誌は大体使っていたように思う。特に海外の雑誌が多かったような。やっぱり整然としてて見栄えが良い。

あと、いとうせいこう氏が編集長の噂の雑誌「PLANTED」、探して見たけどやっぱり面白かった。
園芸雑誌って聞いた時、「趣味の園芸」みたいなやつとは違うんだろうなぁと思っていたら、予想通りその枠を見事に超えて、芸術とかファッションとか思想の要素も入り込んでいる。それでいて、植物、っていう軸はちゃんとある。
曰く、そもそも”雑”誌なんだから、カテゴリーにとらわれないで自由に何でも入れよう、という事なんだとか。
こういう事をやってもいいのか!こういうのいいなぁ!って。
色の配置とか写真とかも綺麗でにぎやかで、見ているだけで楽しかったし。
なんだかいいですね。いとう先生(スペ中)。


にぎやかさ、という要素を、私は非常に大切に思う。

以前、デザインにおける幾何学や、テキストや写真の配置におけるグリッドシステムの存在を教えられた時、整い過ぎていて気持ち悪いという事態は無いのか?と先生に聞いて、無い、と一蹴された。
確かに、幾何学や格子線を利用した作品の美しさは凄い。コルビュジェとかルイス・カーンの建築を見れば、幾何学がどんなに凄いかがわかる。優れたデザインや自然の造形など、美しいものの根底には何かしらの法則があって、それは人間のインスピレーションを超えた所で存在しているって、わかった。
それは、前質問した時よりもわかってきた。だからそれ自体を否定する気はもう無い。

でもね、やっぱりそれプラスで何か、にぎやかさが欲しいんだよなぁ。
それはごちゃごちゃしているのは違う。ごちゃごちゃしていると、にぎやかなのは、自分の中では違うんだ。両方好きだけど、両方は同じではない。うーん。何と言うか。

…色かな。そうか。あとは色だ。
幾何学にしろ格子線にしろ、その無機質な上に、にぎやかな色を乗せればいいのか。そうすれば好きな感じにできるかもしれない。
いずれにせよとにかくやってみるしかないか。いろいろと。


読んだ本: 塩野七生 『サイレント・マイノリティ』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 3日 (月)

無音には耐えられないんだ

iriver内の曲替え(最近までイヤホンが壊れてたのでサボってた)。
それまで邦楽ロック一色だった中に、この春から混じり始めた、日本語のじゃないロックとかジャズとかが、少しずつ増えてきています。慣れです。
512MBという容量が物足りない今日この頃。当分は付き合い続けるつもりだけど。
そして、月変わり恒例の行事、ブッチャーズ『7月(July)心』を入れる。待ってましたとばかりにすぐさま大音量で聴く。いやぁ…また来たね7月が。

雨上がりの新宿へ行って、まずディスクユニオンにCD探しに行ったのだけど、映画前の限られた時間の中で見つけられず。
しかしあの店は楽しいな。いくらでも居られるなぁ。特に本店地下1階の並びには、余りにツボすぎて笑った。でもジャズとかプログレとかはさっぱりで、正に異文化の中に放り込まれたような緊張感を覚えました。ここでも世界は広いぞ。
そして開始直前に滑り込んで映画見て、ジュンク堂に雑誌(海外のPurple Journalっていうやつ)探しに行ったのだけど、こちらも見つけられず。やっぱり渋谷か。今日はきっとそういう日だ。

見たい映画読みたい本聞きたい音楽行きたい場所、どれも盛りだくさん。どうしよう!


観た映画:舩橋淳 『BIG RIVER』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 2日 (日)

コンプレックス

今日は(今日も)個人的な話になりますが失礼します。

話は幼稚園の頃にまでさかのぼる。
私の通っていた幼稚園の校風(園風?)は自由で、年間通して、遊具の無い広い庭を園児が駆け回っているような感じだった。

掃除して、運動して、遊んで、ヤギの世話して、給食食べて、昼寝して、遊んで、帰る、

という生活で、絵本読んでもらったり歌ったり絵を描いたりする以外に勉強は全く無かった。
つまり、遊びが大部分を占めていた。そしてその遊びといったら全て外遊びの事を指すという環境にあって、まず木に登れない、ドッヂボールが弱い、石も遠くに投げられない、と三拍子揃った私は完全に落ちこぼれた。
とにかく行きたくなくて、如何にして休もうかとか、お泊まりの夜には、如何にして帰ろうかとか、そういう事ばっかり考えていた。
運動会の障害物競争で、途中の逆上がりが出来なくて、戦線を離脱したりもした。
年中のある日には、園から脱走した事もある。とにかくエピソードには事欠かない。
幼稚園の頃の写真で、満面の笑みを浮かべて写っている友人達の中で一人だけ、にこりともせずこちらを睨みつけている子供が居るが、それは私だ。ヒネた子供だった。

もちろんよく思い出せば、楽しい事は沢山あった。ヒネていながらも面白い友達はちゃんと居たし。
しかし、幼稚園の時を思い出してまず浮かぶのはやはり、運動音痴で内向的な自分の姿だ。
小学校へ上がっても、運動音痴をそのまま引きずって、体育の授業や休み時間などで、更にその傷を広げることになった。
自然と私は、本を読み、ピアノを弾き、絵を描く、という完全なインドア生活へシフトしていった。
(妙だけど、小・中学校の時の記憶よりも、幼稚園の時の記憶の方が鮮明に残っている)

そんな私が中学へ入って急に運動部(剣道部)へ入る事にしたと知って、それまでの私を知る人は皆一様に驚いたらしい。特に両親はひっくり返らんばかりだった。

しっかりした理由は無かった。ただ…今思えば、運動が出来ない自分を変えたいと思ったんだと思う。
幼稚園の時の友達(双子の姉妹で、どちらも走るのが速くて、ドッヂボールが上手くて、石をびっくりする程大きく投げて、木になんてひょいひょい登っては下に残った私によく椎の実を分けてくれた)。
小学校の時の、また同じく何でもできる、運動神経抜群な友達。
そんな彼女達への憧れというものが、大きかった。

そして高校ではボートなんて始めて更に周囲を驚かせ、結果完全な体育会系人間へと変貌した。
剣道とかボートとか、運動神経があまりモノを言わない競技を選んだのも、大きいんだろうな。
「勝つ」という目標の為に頑張るという体育会系ノリを、今では完全に肯定する事は出来ないけれど、とにかくあの時は、それまでのコンプレックスを打開する為に必死だった。
それまでの経験の中で感じていた憧れと、悔しさ。そういうコンプレックスがあったからやったんだ。

幼稚園〜小学校の頃の私しか知らない人と、中学校〜高校(特に高校)の頃の私しか知らない人が私について話すと、必ずそれぞれの印象が全然違うので混乱するらしい。大学入って今度はまた体育会系から離脱したから、きっとまた変わるなぁ。


この頃はまた、運動とは別のところで、憧れと悔しさを感じる場面が増えてきた。
いつもはこう呑気に構えてなんかいられずに焦っているけれど、このコンプレックスが、どう自分を変えて行くのか、と思うと、コンプレックスも悪くないなと。思える。

しかし運動への苦手意識を取り払うのに、最終的には10年以上を要したからなぁ。今のコンプレックス脱するのには、果たしてどの位かかることか。
まあがんばれ。


今日観たDVD:
 チャーリー・チャップリン
     『犬の生活』
     『担へ銃』
     『偽牧師』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年7月 1日 (土)

雑記

自分がやりたかったことを、夢の中でやってしまうというのは、目が覚めた瞬間の空しさが物凄いですね。びっくりしました。
自分が何言ったかとか、それに対して何言われたかとか、鮮明に覚えているんですけどな。夢なのか。そうか…


昨日の新聞かどこかで、男性が女性化している、みたいな文読んだんですよ。いわゆるギャル男とか、メトロセクシャルとかそういう感じの人達を指して。
いや、それ自体はいいんですけど、逆にメンズの服ばっかり着てる私は、女性が男性化している、みたいに書かれるのかな、と思ってね。何でそればっか選ぶのかっていうと…わからない。とりあえずフェミニンな格好をする自分はありえないなと、照れっていうのを通り越して、拒絶反応が起こるのは確かだけど。
そもそも、小学校の高学年の時声変わりしたんですよ私。あの時点で方向は定まったんだよなきっと。以来貫禄ばっか付いちゃってね。今更フェミニンとか言われてもねぇって感じなんですかね。


話はまた変わりますが、何か、テレビが見られる携帯電話が出てるじゃないですか。たまに、電車の中で見てる人とか居るじゃないですか。
でも、わざわざ移動途中まで見たいと思う程、テレビ面白いか?と、思ってしまう。
暇つぶしなら…確かにテレビが一番楽だと思うけど。景色とか見てればいいじゃん!と思う。
テクノロジーが先行っちゃって、コンテンツが追いついていないというか。テレビだけじゃなく。
人の事言ってられないんですけどね。私の作るべきは、「コンテンツ」でなく「作品」なんだって。コンテンツは、ただの容れ物なんだって。

でも、本当技術の進歩というものは凄いね。凄い物はとことん凄いね。ヘッドホンとかね。
買えもしないのに、大きい電気屋で高額なヘッドホンを視聴するの好きなんですけど。うわ、これで何聴こう!?って思う。大体電気屋で流れてるのはクラシックだけど。
電車の中とかで、そういう凄そうなヘッドホンしてる人、たまに見かけるのですけど、うわ!この人何聴いてるんだろ!と、とても思います。iPodが出始めた頃も、持ってる人見るにつけ、うわ!この人何聴いてるんだろ!と思ってたね。スマップとかだったらどうしよう!モーニング娘だったら何かがっかりだ!とかね。いや、馬鹿にしてるわけじゃないし別にそれ聴いててもいいんだけど。何となく。

電車に乗ってる時間が長いので、周りの人が何してるのかは自然と意識します。
自分の持ってる本を読み終えたりして暇な時に、隣とか前に座ってる人が本とか漫画とか読んでると、何読んでるのか知りたくなります。
最近は本当にダヴィンチコード率が高い。先週は英語版読んでる人がいた。

あ、あと電車の中で、ちゃんと顎を引いて、脚を閉じたままで、まっすぐな姿勢で寝ている女性を見ると、ああ、こういうのを品格って言うのか!とちょっと感動します。(…品格が有ればそもそも寝ないのか?)
私は電車の中で完全に熟睡し、降りる駅の直前で目覚めるという技は身につけたのですが、寝てる時自分がどうなってるのか考えるのは大分怖い。寝言とか言ってたらどうしよう。
この前、私があまりにも深く寝入っていたせいか、隣りに座っていたおじさんが「おい今大宮だよ!」と起こしてくれました。完全に寝ぼけていて最初何言われたのかも分からず、自分がどう返事したのかも分かってなかった。そこ降りる駅じゃなかったけど、ありがとうおじさん。


はい。全く思いつくままに雑記でした。7月か…。


今日読んだ本:オフェイロン 『アイルランド』
今日見たDVD:北野武 『その男、凶暴につき』
今日見た映画:ジャン=リュック・ゴダール 『立派な詐欺師』
       クロード・シャブロル 『虎は新鮮な肉を好む』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »