いままで私の中にそういうものとしては仕舞われていなかった記憶が、時代性というものを内在していたことに気付かされる出来事に多くぶつかった一年でした。
時代性、なんていう言葉は、私が初めて出会ったときから既に過去のもの、終わってしまったもののことであり、私には関係のないもの、否、関係を取り結ぶことができなかったものとして、ある種の憧れと苦い諦めの混じりあった言葉としてしか認識することができませんでした。
それまでテレビと新聞と、いくつかの本が全てだった世界から出てきたばかりの私を待っていたのは、そんな「生の体験」を知る人たちからの洗礼であり、
焦燥感と共に、もう本当の輝きは失せたと言われているものの欠片を必死でかき集めることが、本を読む上でも、何かを見たり演じたりする上でも意識していたことで、当時の私の全てではなかったかと思います。
だから、劇団がなくなったり、先生が病気をして亡くなったり、震災があったりという大きな喪失に見舞われる以前から、
私の中には、既に何か重要な喪失感があったと思わざるを得ず、既にあったからこそ余計に、そのダメージに耐えられなかった、私の人生は終わったと本気で信じてしまったのだと思います。
まだ、なんにもしていなかったというのに。
話を戻します。
私の中に、もう全ては去ってしまったのだという印象を与えた人たちのことを、思い返す機会が今年は何度かありました。
そこで気付いたのは、私はそんなことを全く言われてなんかいなくて、私が勝手にそう受け取ってしまっただけではなかったか、ということです。
大里さん、唐さん、その他60、70年代に「なにか」をしていた人達のゼロ年代時点での姿そして言葉には、懐古的なものなんてちっともなかったじゃないか。
懐かしむという扱いなんてできないくらいひりひりしたものを抱えたまま、「当時」と地続きの生身と視点を持ちつづけていたのをいつも見ていたじゃないか。
わたしは、それぞれがそれまで生き続けているということの証人のひとりだとすら言えるというのに、いったいわたしはなにをねじくれていたのでしょうか。
大里さんの死をどう受け止めれば良いのかわからないまま、全ては終わったものと身を引きちぎるようにして終わらせてきた私たちはたしかにあのとき傷を負っていて、でもその傷付いた事実こそが、私たちがそこにいたことの証明、私たちにとっての時代性というものではないかと思うのです。
時代について話すことはなく、傷について話すこともなく、そもそも克服や決着なんていう外野の欲しがるような手っ取り早くわかりやすい説明なんてものが生身の人間の本心となじむわけがなくて、
ただその表情の浮かびかた、声の調子、言い淀むさま、残された活字、そういった存在ごと全てが、私たちの中には沈没船のように沈みこんでいる、私たちはそういうものを飲み込んでいる、という自覚。
そんなことを強く思ったのは、三度目のAAを観たときでした。
あの頃あの場にいた私たちだけじゃない、この人たちもそうだった、みんなずっとそうしてきたんだ、と、何か心の憑き物が落ちたような感覚でした。
私が経験した、例えば唐ゼミでのことは、例えば状況のそれのように大きなものとして世間から見なされはしないでしょう。でもそれは私にとってたしかに強烈な経験でした。
話が混ざってきました。すみません。
そのときそこにただ一度きりしか現れ出ないと思われるものに触れたとき、心が震え、魂が息を吹き返すような感じがします。
でも、その境地が決して長くは続かないことを、残念ながら頭は理解しています。
だから、それを忘れたくないと強く願う。できるだけ長く、その祝福の効力を帯びた自分で居続けたいと願う。
奇跡だとか、伝説とか、時代性とか、後にはそういう言葉でしか言い表せなくなるのは、
楽しいこと、本当にすごいことは幻で、作り上げるのに時間はかかっても一瞬で終わって、二度と再生することはできないからだと思います。
同じものを同じように再現することはできない、すみずみまで正確に記録しておくこともできない、できるのは、魂が動いたという事実をもって自分を次へ動かしていくことだけ。
そういうことを考えるとき、私は魔法の杖をイメージします。
魔法の杖は、魔法を呼び起こすためのもの。
魔法というのは何もない中では生み出せない、だから媒体が要る、それが、魔法使いにとっての魔法の杖であり、魔法の呪文です。
わたしにしかわからないきがする、わたしひとりではできないものごと、
それが実を結び形を成したときの喜びを知る人だけが、魔法を使えるのではないか。
いくら魔法の杖をきれいに作っても、いくら呪文が巧くても、
本当の魔法の力を知らなかったら、その感覚を一度もしていなかったら、やっぱり魔法を使うことないようなきがします。
そして、人には、その人だけが潜在的に知っている魔法があるのではないかと、私は想像します。
私にとって、唐ゼミも大里ゼミも、
真剣さと集中を以てはじめて付いていくことのできる場所であり、そこでの体験は心の震えるものでした。
封印し、離れている間、その体験が消えることはなかった、と、この一年、
ふたたび人に会い、映画や芝居や音楽に触れ、その感触をたしかに確かめていました。
魔法は消えるものだ、日常は殺伐として残酷だ、でも私はそこで絶望してはいけなかった。
たしかにあのとき、灯火を受け取ったんだから。
自分なりのやりかたで、私は、あのとき感知したものをやっぱりどうしても体現したい。
心の奥底に、どんな錘や障害物があったとしても、それだって魔法の道具になるかもしれないよ。
そう思って仕方がなくなった、12月の夜です。
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