愛/愛着
バルトさんの仰ることに
いちいちうろたえていた大学入りたての頃に比べたら、
結構たくましくなったよなあと思うのです。
ただ免疫が付いただけかもしれませんが。
愛着じゃだめだ、愛じゃなきゃだめだ、と言われても、
たじろがず、身に覚えがあることをとっかかりにして考え始め、考えた結果を、また実践につなげる、という環の中にとりあえず入れてみようと、思うのです。
じゃあ愛着と愛の違いは何か、と考えることには、
「愛着のディスクール」というのが、好きである何か(ここでは音楽)について語る際に、
その根拠を音楽の側でなく自らの情緒や感性やら趣味に求めた結果、自分語りに陥ってしまうというもの(と理解したの)です。
音楽を語る時に用いる形容詞一つをとっても、その形容詞を選択するのは「私」であり、
語る行為が必然的に「私の印象」でもって音楽そのものを閉じ込めることに他ならなくなる。
自分にくくりつける(attach)ことになる(愛着=attachment)。
でもそうするしかないじゃないか、ということではなくて、
自分の感性などという安いもので閉じ込めるのが許されるほど、小さいものではない相手というものにぶつかった時にどうすのかい?ということではないか。
そういう相手をいつもの調子で手なずけて飼い慣らそうとすると、無理が生じるわけです。
その無理を、語りの対象を自分自身に持っていくことでごまかすと、他者には伝わらないし説得力も無いし、多分求心力も無いでしょう。
丸腰で、ポテンシャルだけで挑むのは大きな失礼になる相手もいるということ。本読んで腕磨いてついでに顔も洗って出直して来い、っていうことになる。
そこで逆ギレしたり意気消沈して諦めちゃったりしたらそこでおしまい。
相手に言葉が、ひいては自分自身が追いつこうともがくことが、愛であり、
そういった愛の成れの果てに編み出されるのが「愛のディスクール」なのではないかと。
結局言葉は自分で選ぶしかないから、結果は一緒に見えるかもしれないけれど、全然違うものだと思います。
ポエジーですけれども、そういうものもあってほしいと思います。
そういうことを考えたのも、
この前の動物園が消える日の稽古中であり、
自分の経験なんてものからこじつけちゃうのも、また一つの愛着でしかないのですが。
前だったら、じゃあいったいどうすればいいんだ!ぐわあー!となっていたところですが、
作者なんて死んでたって、
愛着でしかモノを語れずに愛に届かなくたって、
それでもやめるわけにはいかないんだよ、と踏み留まることができるようになりました。
それは決して、言うことを聞かないとか、反論とか開き直りじゃなく。
むしろ、理解した上で語るのをやめてしまう方が、ただの誤解より罪深い誤解なのかもしれません。
正しいことを、消極的である言い訳に使うのは間違っていると、確信をもって思うのです。
生きているのは私だし、ひっかかるのは私だし。
先達の言葉を噛み締めながらも、書くこと語ることを続けます。
時代(その場の状況なりシーンなり)の主流に対する親和性の高いものが生存する。
順応できないもの、順応することをよしとしないものが、顧みられなくなったり流されたりすることがある。
そういうものの価値を、後者に代わって(または補って)、みんな(誤解が生じていると己が感じる対象)に伝えるという仕事。
順応できない生物は絶滅から逃れられない。にもかかわらず残したいと思うんだったら、力入れてやらないと残らない。大変な仕事だ。
そこに意味はあるのかとかそんなん知らないけれど、私が勝手に残したいと思ってるんだから、私が頑張らなきゃいけない。
たぶん愛の深さが問われています。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)



最近のコメント