2016年2月25日 (木)

深夜細雪

言えることと言えないことがあるのが後ろめたいから、
もう何も言いません、
言いたいことは特にありません、

元気です、大丈夫です、頑張ります、以上です。

っていうのは

なんというか、
ただの意地っぱりだな、

と思って、

何のための意地なのか何にもならないじゃないかと
思ったものの、

思っただけで打つ手はなく

端数切り捨ての如く打ち消してきた、
ないなりにあったはずの言いたかったことがらが、
もはや怨念を帯びてわだかまっているような
気配だけはするのですが

それらをひとつずつ取り戻そうと
ばっと振り返ったところで
何にも見当たらなくて、

でも、そういう今を認めることでしか
沈黙は破れないのではないかと

思った次第です。

確かに言えることだけを、探してみます。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年2月 8日 (土)

認める、ということ

大雪です。
休みなので呑気に屋内でぬくぬくしていたところ、雪でドアが開かずに外に出られなくなってしまいました。

明日は晴れるという予報を信じて、待っています。
片手のスコップでは心もとない積雪量なのですが、なんとかなるでしょう。

ちなみにこのスコップは、蛇を埋葬するために百均で買ったもので
その後雪かきのために年一回ほど用いられています。
成り行きというものについて、毎度神妙な気持ちになります。


さて

今の会社に勤め始めて8ヶ月。
翻訳という言葉に惹かれて戸を叩き、雇われる幸運に恵まれましたが、
いわゆる産業翻訳の、さらに、営業という仕事をつづける中では

日々の人間関係の些事や理不尽、先行きのなさやオーボーに対する無力感等々、
社会人であればみな見舞われるのであろうポピュラーな試練に
あっ、、けなく翻弄されているというのが現状でありまして

元来憧れていた姿との隔たりに、そのとき見えていなかった、知らなかった光景のありさまに、
というかその、憧れとか、自分の考えとか思い入れとかがもれなく邪魔なのだという指導も相まって

ひとりで愚痴愚痴鬱々としてばかりいます。
情けないことです。

これが現実なのさ?

憧れが幻だったのだ?

なまじ翻訳という世界に身を置いていることによる卑屈さみたいなものが
「翻訳文学を読む」という、
かつて胸を躍らせた憧れの源泉たる行為からも自分を遠ざけてしまい

くるしいなあ。
とてもくるしいなあ。
というぐあいです。
でした。かなり。


未知の相手を理解する、
というのは本当にうれしいものです。

営業というのは、私のような内気な者にはたいへん勇気のいるものですが

初めて会う相手の奥にある、確かにあるけれどとても細かくて散らばっているキラキラしたものを探り当て、触れ、それを引き出す

そういうことができた気がした時の喜びは何物にも代えがたく

つまりそういうことなんですよね

仕事という営みの中に隠れている、人間的な熱とか、それこそ私の知らない別の憧れとか
そういうものとの邂逅を求めてやまない……です

でもそれは「邂逅」であって、毎日ふつうに出会えるものでは、なぁーくて
そうじゃない、うまくいかない、わからない、わかってもらえない、そもそもわたしなんていらない、そういうことのほうがずっとずっと多くて

社会の中でお金を稼ぐということは、特に、会社しょって営業まわるということは、
そういう中でうろうろするということなのであって


それでもそれをやめないで、次のラッキーを求めて動きつづけるしか、邂逅はない……んだよなあ
というのもわかってきていて

お手本があるわけじゃないし、経験もないし、
ほんとに手探りで、何を目指せばいいのか、形も見えないのだけど。
というか、自分が動けば動くほど、逆に形がなくなっていくのだけど。

自分が見たもの聞いたもの感じたものの集積を、どう統合すればいいのか。
動けば動くだけ知らないことが増えていくという中でだよ。そう、そっちが増えるのですよ。

そんでたぶん、ほとんどの人が実際はそういう状態に身を置いている。
そんでそのなかから形を、言葉を、足場を自分たちで作ってくしかない。

まだ訳のない言葉、定訳のない専門用語、形のない概念、エトセトラエトセトラ。

そんな中では、いま既に形のあるものに対して、
一から十まで納得できるものというのは、どんどん少なくなっていって、というか、なくて
どの部分は是でどの部分は非なのか、切り分けるのもまた自分の仕事で

世界はそんなふうに動いている。のかな、と

足場のない、先も見えない中で、「これだ」と感じるかけらを集めて自分のものにして、形づくりながら前に進むということ。

それってものすごく翻訳的だ、
仕事自体が翻訳だ、というかそういう営みはきっとみんな翻訳なんだな、と思います。


話を元に戻すと
文章の翻訳を求める人の事情と、
文章の翻訳をする人の事情と、
その双方のあいだで動いているというのも、得難い経験とも言えます。

私は翻訳を読む人ってだけで、その人たちのことはわからなかったからなあ。


かつて憧れたものの裏や足場、背景を知って、その中で生きて
それでも憧れた気持ちを否定しない、手放さない

なんと力がいることかと思います。
難しいことです。逃げたくもなります。
ぜんぜんできてないなあ。


がんばれるだけがんばります。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年11月13日 (水)

地始凍2

拾ってくれた会社の方針が変わって、社内初の営業役になったものの、

営業という仕事に対してわたしは、どこか胡散臭い印象をぬぐい去れずにいて、
そのことは、外回りが習慣づいてきた今でも少しは胸に刺さっているのですが

1日じゅう1人であちこち移動してるのも誰かの話を聞くのも好きで、
というか、話を聞くのは、これはもう絶対に間違いなく好きだ、とそういう確信は日々深まっていて

ただ、話を聞きに行く約束を取り付けるのはちょっと苦手であるな気が重いなというのもいつも思っていて

ということは、わたしの仕事は、約束を取り付けることなんだ、
取り付けてしまえば、あとは楽しいことしか残らないんだから(もちろん遊びじゃあないが)、と今日ハタとして

営業に対する心の重さが半減したような気がします。
気がするだけかもしれないけど。

また、断られて落ち込んだり、わたしのやってることってただ迷惑なだけかもとかよぎったり、自分に何ができるのかわかんなくなったり、ばーかばーかと思ったり、
しょっちゅう、しょっちゅうするんだろうけど。

でも、約束を取り付けて、その約束を果たすことがわたくしの日々のお仕事、というのは確かだと思います

そのためにまず、約束をしてくれるくらい信用してもらう、話したい相手になる、
そんで、裏切らないためにがんばる、やるべきことはそれなのよなと


会いに行くっていうこと、は、

力を込めて芝居を作り上げたり、店に来てくれる人を喜ばせたり、というのとはまた違うもので

新しく仕事を探す、自分から仕事をつくるっていうのは

やるべき仕事は常に自分の「外」にしか存在しないということで
それはとても心細いし、不安なこってす、はい

そういうのを重ねていくことで、自分の中になにかが目に見えて残ったり、
いわゆる手に職がつくわけじゃないし、なにかできるようになった、みたいな進歩の区切りも特にない、

けど、

その、話を聞くの好きだあ、というこの今のひとつかみの実感は、なんか泣けてくるほど嬉しいものでして

自分のしてる仕事について話してくれる人達、もれなくかっこいいんすよ。こう、きゅーんとするんすよ。

翻訳を頼んでくださる方のしてる仕事の凄さと、
いい翻訳をしてくださる方の仕事の凄さを、
両方ともちゃんとわかった上で、正々堂々やっていきてえよなあと思って

多分あらゆる産業翻訳の奥にはそういうものがなきゃいけないし、
翻訳を、ただの言葉の置き換えと思われてたまるかと思って、

そのためにしっかり働いて、みんなのことサポートするには、
そういう、学んで伝える力が絶対に必要で、全然まだまだだと思って、

仕事にやりがいがあるっていうのが嬉しくて、でも力不足なのが悔しくて、


がんばりますと。思います。

半七捕物帖の善八のように(半七のように、とはまだ言えない)、如才なくやっていきたいです。

あとあれ。「憶さず!」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年11月12日 (火)

地始凍

職業が変わったり、体型や髪の毛が変わったり、服装が変わったり、健康状態とか肌質とかいろいろな推移がございますが、

わたしはわたしだなあと実感するのは、
なんか落ち込んだり引きずったりするときのその重心の先に気付いて、ああやっぱり(お前か!)と思う瞬間であったりしまして

挫折でもなんでも呼び名は色々あるけど、

やっぱりさ、一旦ものすごくねじれたものをさ、がんばって戻してきて、やっと元いた場所につなげたようなもので、
つなげたんだけど決して元通りではないそのつながりかたって、メビウスの輪そのものだと思いました。


だから、そのことについて語るということが、ある一つの面だけに立って語るっていうことが、不可能なんだ、
どうしたって、話してるうちに裏側に行ってしまったり、また表がまざってきて、何がなんだかわからなくなるのだ、と

ねじれずにいられたり、
あるいはもう、ねじれたまま戻そうなんてせず、そちらに突き抜けられたりしていたら、
こういうことにはなってないのかもしれないな

中途半端だなー、かっこわるいなー、と呆れますし

どっちつかずで、どっちにも居られない、ぐるぐるなんで、何を言葉で固定しても次の瞬間既に疑念でいっぱいになっていくのが心もとなくて
たまらなくなることもありますが

でも、そういう気持ちになってでも、
近くに行ったり、姿を見られたり、会えたり、話せたりするのはやっぱり嬉しいんですよね

わたし、そこにいた、ということを確認するというのか

もうそれだけでいいや、
そのときの自分が本当はどう思ってるのか決められなくてもいいや、
と思います。

やり直したいわけではなく、戻りたいわけではなく、変わりたいわけでもなく、

それがわたしにとっての自然体と呼べる状態なんだろうなと。


しかし寒いなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月12日 (月)

世田谷区

世田谷区
去年の夏

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ご近所

ご近所
これも去年の
なにかの事務所の看板ねこと、新聞のトイレットペーパー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ここはどこだったかな

ここはどこだったかな
(いつだったかな)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月 9日 (金)

涼風至

会社というしくみの中に身を置くようになってから早くも2ヶ月が経とうとしており、
イッチョマエに不安なことや問題や疑念なんかが漂いはじめています。

でもそれを補って余りある発見が多々起こる毎日でして
わたしが今こうして翻訳という営みに携わっていることを深く納得しているので
それを頼りに、いろいろ挑みたいところです。

せっかく掴んだ偶然ですから、
文句ばかり言って、文句の精度ばっかり上げても意味がないしもうそういうことはしないんだ


ところで携帯を買い替えたのですが
ボタンが前のに比べて少しかたく、押しづらくて弱っています。
そんな少しのことで生じるささいなストレスが、
一押しずつ入力しながら考えていく文章自体に与える影響はいかほどかというのを思うと

それはちょうど、外国語という慣れない入出力にひいひい言ってる今の状況に重なる気がします。

負荷、抵抗、そういうものを経なければ生めない、存在させられないのが言葉であって

その原形にあたるのはおそらく気持ちというやつなのですが、
ああ、気持ちを気持ちとして感じ、それを言葉にするときの心もとなさよ。
そんな覚えも重なってきて、それらの根っこはたぶん同じものです。

エトセトラエトセトラ。

何が言いたいのかわかりませんが、何が言いたいのかわからなくても、こうして何が言いたいのかわからないっていう形をあつらえることはできて
形って大切だなあ怖いものだなあ

形の力を借りなきゃ何ひとつ言えないのに、形のことが疑わしい、そんな心細さのときみんなはどうしてるんだろうな

そんな、言葉の原形についてなにか思っていたら外でネコがにゃおにゃお鳴いていて、
そういうことですねとまた勝手に納得しました。

にゃおにゃおから意味を読み出すことは無理で、
その声の震えとか大きさとか声音を感じるしかなくて
しかし文字にできるのは、耳から入って頭を経て指先が打ち込むのは結局にゃおにゃおで

あと、英語にできない、英語にない日本語というものの処遇…つまり運命を
言葉にできない、言葉にない気持ちの行方と重ねてつい熱くなったり

一方、秘め事というものの深淵について思いを馳せたり

はたまた別の場所にて、ヘブライ語で、出来事 と 言葉 は同じ一語であらわすのだと聞いたり


しています。
そんなこととはあんまり関係なく日々の業務は続いております。

こうして気持ちのまま指に任せて文章を作るのは、楽しいです。安心します。

負荷と抵抗のスイッチを切ってみたら、はたまた別のものに換えてみたらどうなるのかな、っていうのは音楽めいてもいますね。

そういう、ほとんど雑音なのを承知で音を拾うための、ブログにしちゃおう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2013年6月23日 (日)

日曜日

先週末から、いわゆる会社というものに勤め始めました。

「休日」としての日曜日を実感するのは、たぶん小学校卒業以来だと思います。

接客販売の仕事を辞めてから三ヶ月の間、何の肩書きも持たずにやっておりました。
肩書きというのは、社会から期待されているなんらかの役割を示すものであります。
それが、ない、ということをすがすがしく受け止められるだけの余裕がなかったものですから、
周囲からなんにも要請されない、というのはなんと孤独なことだろうという思いに日々鬱々としておりました。
鬱々どころか、半狂乱という具合にもなっていました。
自分の弱さの核の目の前まで引き寄せられ、その全貌をとっくり鑑賞することに日々を費やしていたように思います。
立ち向かうこと、まして打倒することなどはまるで叶いませんでしたが、その体験には絶対に意義があったといまは信じたい所存です。
おそらく急所は急所のままでしょう。そのポイントは死ぬまで同じかもしれません。
肩書きがあることで得る安心感は、虚飾だっていうこと
なにをしでかそうが、はたまたなにをやってのけようが、わたしはわたしだっていうこと
翻弄されなくてもいいということ
自分が自分であることに恥ずかしさがなくなってきた、そんな気がしております25歳の夏です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年5月12日 (日)

どこにいたって どこにいーたーって

Image_3


(こめは立派)

自分の中身を他人の外見と比べちゃいけないんだって

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«いろいろ